違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

石の上にも三年

コロナが出現してから間もなく三年目が始まる。

 

もう二年が経過したとみるか、まだまだ二年しか経ってないとみるか、そこには人それぞれの人生観が関係するし、その人生観にはこれまでの人生経験や体験や人間関係が大きく影響してるに違いない。

 

『石の上にも三年』、我慢や修行は三年も経験すれば実を結ぶというような意味で理解してる人が多いだろうが、いつの頃からか世間では実を結ぶために必要な期間というよりも、無条件に我慢を強いられる期間として使われ、実際には三年経ったくらいで良い目に逢えるなどと軽く考えるなよ、という意味で使われているように感じる。

 

そうなった理由は簡単で、序列の上でずっと我慢し続けてる人たちがふん詰まっているからだ。

 

三年どころか五年、十年、二十年・・と我慢し続けていることなんてザラなのだから。

 

そういえば堀江貴文氏が『何年も鮨の修行するなんてバカ』って言ってたなと思い出して調べてみると、最近の話だと感じていたが実は2015年の10月だった。

 

2015年にはこの発言に怒りや不快感を感じた人は、今も同じ考えだろうか?

 

 

運が良いとか悪いということを、最近は『〇〇ガチャ』に当たるとか外れるという言い方をすることが増えたが、その方が相応しい表現だと感じてる人が多いからだろう。

 

ガチャに外れると修行なんてなんの意味もないということを現代人はどこかで悟っているだろう。

 

ガチャを引き当てた堀江貴文さんのような方が長年の修行なんて意味がないと言ったことが深いのだ。

 

修行が必要じゃないということと下手でも構わないは全く別の話で、有能であることはどんな現場でも最低限必要なことなのだが、現代は一定水準以上の有能な人なんて掃いて捨てるほどいるのでガチャという運試しが求められるのだ。

 

有能さを極めるのはほんの一握りの人だけが担うことで、多くの人にとってはガチャを引き当てる運や才能の方が大切なのだ。

 

親ガチャや家族ガチャに不平不満を持ってもしょうがない。

 

自分がエントリーできるガチャを勝ち抜くしかないのだ、有能であることは必要だが、それは最低限で十分で、残りのエネルギーはガチャを勝ち抜くことに振り向けた方が良い。

 

無能なのにガチャを引き当てるのもチャンスをものにできないという意味では地獄だろう。

 

 

必要な準備はできて、ガチャを勝ち抜くために一体どのくらい時間がかかるのか?

 

 

残念なことに、三年どころではないかもしれない。