成人式恒例の新成人の無軌道ぶりが今年もテレビで放送されていた。
ごくごく一部の話なのは百も承知。
やりたくてやってる行為なのか、それとも人間関係のしがらみで割り振られた役割分担としてやらざるを得ないのか、どちらだろうかと思わずにはいられない。
それを見ながら、その無軌道ぶりは本人にとって後の人生では武勇伝として語り継がれるのだろうか、あるいは若気の至りとして捉えるのだろうか、それとも無かったことにするのだろうか、と感じた。
もし、無かったことにしたいなら、一緒につるんで行動した仲間と縁を切らなければいけなくなるだろう。
世の中には、あったのに無かったことにする話や、無かったのにあったとする話がたくさんあるはず。
それらは出来事別に分類されバレた時には、ウソや詐欺と言われることもあれば詐称(経歴や学歴)と呼ばれることもある。
ウソや詐欺と紙一重に美辞麗句というのもある。
少しでも良く見せたいという動機で始まり、あらゆるプレゼンの場でごく自然に行われているはず。
だからこそ、実際以上に誇張された、あるいは過度に期待させるものが持つ実際とのギャップを見抜くためには広い意味での知識や経験を総動員させたリテラシーが求められる。
不都合を隠蔽するために行われることは、悪意があろうとなかろうとすべてロンダリングに該当する。
問題は、何を不都合と位置付けるかだ。
礼儀作法やマナーを身に付けることも広義のロンダリングかもと思うと、形容詞に虚しさが感じられる。
意識高い行動のほとんどは、見方を変えるとロンダリングに該当するのだ。
マネーロンダリングと聞くと犯罪だと思うが、昔から本当の金持ちは世間の反感を買わないように質素な生活を意識していたという話も広義のマネーロンダリングにも感じられる。
しかし、表で見えるところは慎ましく振る舞った方が賢明だというのはロンダリングではなくリテラシーなのだ。
では昨今流行ってるリア充アピール(これ自体が死語っぽいが)はリテラシー的にはどうなるのだろうかと考えると、ジャンルとしては広告宣伝で、そのために投じてる費用は経費であり、リア充アピール自体が事業として行われていると理解できる。
つまりリテラシーではなく、真の目的をロンダリングするためだと想像できるし、真の目的は掛けた経費以上の儲けを得るためだと分かる。
“嘘も方便”や思いやりも、優しい気持ちが動機のロンダリングなのだ。
このように考えると、世の中はロンダリングだらけだと思えてくる。
そうすると納得できるのが、現代がストレスだらけだということ。
つまり、自分の気持ちや本音もロンダリングの対象になっているのだ。
無意識のうちに、無自覚に、自分の気持ちや本音をロンダリングしようとしてることが悩みの元なのかもしれない。
無意識に無自覚にロンダリングしてるのは何かに気付いた方が良い!