写真の話をしてるつもりなのにいつの間にか話してるのはカメラの話になってる。
ドライブの話をしてるのにいつの間にか話してるのはクルマの話に。
問題を解くための話をしてるのにいつの間にか使ってる参考書や塾の話に。
学生から社会人になると、答えは自ら考えるという体を取りながらも時間を掛けることが許容されず、どこの誰でも構わないから答えを教えてくれる人を求めるようになる。
答えを知ってそうな誰かを知ってるということですら勝手に価値や大義名分を持つようになる。
知らないことが許されない、あるいは知らないとは思われたくない、そういう環境が増えたことで増えたのが、知ったかぶりや論点をずらすという無意識に近い反応。
この無意識の反応は、生き辛さを柔らげようとする防御反応だが、この反応を受けた側は低レベルな攻撃を受けた気になる。
話し合いの場では、メンバーの立場は対等であっても、指示する人と指示される人に分かれたり、教える人と教えられる人に分かれることが多い。
巷では、指示する人や教える人を教えたがる人と位置付け、教え魔などとdisることが増えた。
これは教えられたり指示されることが嫌いだという証であり、基本は防御反応なのだが昨今のハラスメント嫌悪の流れで攻撃として機能するようになった。
だから、本当は知らなくても『それ知ってる』とリアクションする人が増えた。
本当に知ってる場合の『それ知ってる』は、話の盛り上がりを演出するし、『それ知らなかった』も話を弾ませるスパイスになる。
しかし、本当は知らなけれどそれを隠そうとする場合は、論点をずらしたりして話が噛み合わないようにして逃げるのだが、これは意識的あるいは意図的なものではなく、無意識だったり、気が付いたらやってるという種類なので自覚はない。
知らないのに『それ知ってる』という人を追求することは、やり方を間違えるとハラスメントになる。
『それ知ってる』という人が増えたことでコミュニケーションは確実に変化せざるを得なくなっている、今はそういう時代なのかもしれない。