世界中の世間で多種多様なmetooやハラスメントが後を絶たないのは、他人事として発覚した事なのに、とても他人事には思えず、自分事として感情移入する人が多いからだ。
自分も同じような目にあった、自分がいつ同じような目に遭っても不思議はない、だから反応するのだ。
単なる同情や正義としての反応ではない。
他人事が自分事に感じられた瞬間に、それはネタや情報ではなく自分に降りかかった火の粉になり、熱いだけでは済まないかもしれないのだ。
今となっては昔話になるかもしれない2021年2月のおもしろい話があった。
元記事はすでに削除されているがTwitter速報には丸々残っている。
【アエラ(朝日)】鈴木おさむ氏「ブチ切れた妻から「お前なんか森喜朗と一緒だよーーー!」と言われ、自分も一緒だったという事に悲しくなった」「全国の旦那様気を付けましょう。」
「お前なんか森喜朗と一緒だよ―――――――――――――!」
そして「あいつと同じで、聞く耳もたねえじゃねえかよ!同じだよーーーー」。その言葉を言われて、怒りを通り越して悲しくなった。
だって、だって、「森喜朗」って言われるんですよ。失言で世の中に叩かれている森喜朗会長ですよ。自分はニュースを見て「なんで、こんなこと言っちゃうのかな~」って思ってたのに、気づいたら自分がそっち側にいたんです。
自分も一緒だったってことに気づいて、悲しくなった。
まさに他人事が自分事になった瞬間だ。
そのショックは大きいのだ。
生老病死、他人事のようで絶対自分事として避けられない。
同様に、絶対に起きるわけではないのに、他人が犯したミスや失敗も自分事にしないようにと警戒するのは、自分事になる可能性の高さに感情移入しやすいからだ。
北朝鮮による拉致被害者、昔は神隠しなどとも言われていた、に感情移入する人が多いのは、本人も家族もかわいそうだからというのももちろんだが、いつ自分や自分の家族に降り掛かってもおかしくなかったという思いも大きいはず。
地震や水害などの自然災害の理不尽だって同様だ。
大多数の人にとっては結局は他人事で終わるのだが、自分事として感情移入しやすい。
自然災害の犠牲になる時は、多分自分一人だけではないだろうという思いがほんの少しの慰めにはなるかもしれないが。
被災の現場にボランティアで訪れる人の中には自分事として捉えてる人は多いはず。
冠婚葬祭ということばがある位だから、昔は不幸だけでなく祝い事も自分事として共有する歴史があったはずだが、冠婚葬祭は今となっては自分事化に馴染まないただの他人事になってるように感じられる。
こうやって考えると、他人事の自分事化も、時代とともにずいぶん変化してるように感じられる。