候補として一本化されたあたりまでは予定調和しか感じられなかった、だから好ましい展開だとは感じなかった。
そんな思いが変化したという話。
当初の私の気持ちを代弁するようなツイートを紹介すると、
東京五輪組織委の新会長に橋本聖子氏が決定を報じる今日のテレビ各局の姿は、本当に気持ち悪かった。申し訳程度に疑問の声を一部で挟みつつ、全体の八割以上は「橋本聖子絶賛」のおべんちゃら大会で、橋本氏がいかに新会長にふさわしいかを競うように持て囃す。不透明な決定という本質的な問題は無視。 pic.twitter.com/0Ww1O0K7J8
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2021年2月18日
橋本聖子氏が森喜朗氏と家族同然の付き合いだ、という事実は、そもそもの発端を考えればマイナス要素のはずなのに、テレビ各局はなぜかプラス要素であるかのように扱う。
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2021年2月18日
まるで、橋本聖子氏が森喜朗氏の正統な後継者だと誰かにアピールするかのように。森喜朗氏がなぜ辞任したかを忘れたかのように。 pic.twitter.com/OsNztSt7al
政治の側もマスコミの側にも、それぞれの思いが別々にあるはずなのに、事態は予定調和に向かって収束するような気がして不快だった。
自分が不快感を感じてるのを自覚した時に、なんで俺は不快なんだろうか?、自分に刃が向けられてるわけでもないのに、と思い始めた。
そして、もし自分が橋本聖子さんの立場だったらと考えてみた、思いっきり感情移入して。
そうして気付いたことは、この件に関してわたし自身に当事者意識が全くなかったからこそ、外野の傍観者的な目でいたのだということにだった。
厄介なことに、最近の世間と同じく、傍観者でありながら正義を気取ってしまっていたのだ。
そこに当事者意識を持ち込んだら、見えてる景色が全く違ってしまった。
会長就任の会見での表情を見ていると、とても穏やかで静かな印象を受けた。
『もう逃げられない』という覚悟に感じられた。
気が付いたら、私の心にあったはずの不快感がどこにも無くなっていた。
Twitterで似たようなことを感じてる人はいないかと思って探してみると結構いるらしいことが感じられた。
そんな中で、わたしの気持ちを代弁してくれてるようなツイートがあった。
橋本聖子新会長を応援します。
— あっきー (@wB1HqwmdlNOHH3x) 2021年2月18日
誰も引き受けない中、そしてセクハラ問題を批判される覚悟での就任です。
確かに過去の問題がありますが、これから我々には想像も出来ないほどの苦労があると思います。
清廉潔白な人はいません。
僕は許して愛して協力していきたいです。
何かが変わる時というのは、戦争や大災害や革命がきっかけだと思い込んでいたが、水に投げた石の波紋が広がるような静かな変化だって影響力があるように感じられた。
見ようによってはただの予定調和劇場に見えないこともないが、当事者としての気持ちに感情移入すると、まさに革命前夜の命を投げ打つ覚悟がなければ無理だと気付く。
自分の気持ちが変化したことが予想外だったが、もともと人間はキッカケ一つで価値観を180度転換することは容易だという持論の持ち主だったことを思い出した。