違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

どこにもいない一国一城の主

一国一城の主とは、辞書的には他への依存がない独立した状態を意味する。

 

偉くなくても金持ちでなくても、独立できてる方が良いじゃないかと一般には理解されてる。

 

そんな一国一城の主を考えていたら、なぜかその反対の依存することを薦める言葉が頭から離れなくなった。

 

 

寄らば大樹の陰

 

 

この諺が頭に浮かぶと反対の意味を持つ諺も自然と連想する。

 

 

鶏口となるとも牛後となるなかれ

 

 

 

しかし昨今の世相を見ると、本来反対の意味を持つこの二つの諺が実は同じ意味ではないかとすら思え始めた。

 

 

自民党関係者が語る「安倍元首相が統一教会との関係を“党公認”状態に」 8/17(水)

「すべて選挙応援に収れんします。安倍さんは、自民党総裁として、選挙に勝つための、支援組織の一つとして位置づけていたのでしょう。特に参議院の比例区は、雲をつかむような選挙。1万でも2万でも候補者にとってはのどから手が出るほど票が欲しいのです」

 

 

多くの人にとってはちっぽけな邪教に過ぎない統一教会だが、頂点に君臨してるはずの自民党にとっては大樹であり牛だったようなのだ。

 

 

一般人からすると、吹けば飛ぶような統一教会がさまざまな問題を起こしながらも安泰なことが不思議でしょうがなかったが、捨てる神あれば拾う神ありだったのだろう。

 

 

寄らば大樹の陰は、建前では否定されがちだが、本音ではあやかりたい人が多いことは日本人を見てるとよく分かる。

 

大樹に惹かれる人は福利厚生が大好きだ。

 

福利厚生、つまり他人の褌だ。

 

 

最近では大樹どころかただの細枝に過ぎない正社員ですらありがたがられるようになっている。

 

そして、そんな細枝が大樹に思えてる人がどんどん増えてるようにすら思える。

 

 

鶏口どころか鶏後になりたがる人だらけかもしれない。

 

本当は牛後になりたいのに鶏後になってる人は、やがて虫後になるのだろう。

 

 

一体今の日本に一国一城の主は何人いるのだろうか?

 

 

数えれば両手の指で足りる程度かもしれない。