地球温暖化やSDGsについて思いを馳せると循環に関心が移る。
循環するものに水がある。
水をイメージすると液体だが、環境次第で個体の氷にもなれば気体の水蒸気にもなる。
液体だと地球上を動ける範囲が限定的だが、気体になったり固体になったりできるとさまざまな移動が可能になるだけでなく、移動しないということも可能になる。
液体、気体、固体という変化では体積の変化も伴うので、破壊力も秘めている。
この循環するものとして人間を考えた場合、解釈は複数存在する。
一つは死んだ場合、これが一番わかりやすい。
生きてる人間が死んだ場合、土葬にすると時間を掛けて土に戻るという循環が感じられる。
火葬にすると、骨以外はなくなる、ということはきっと空気になっているのだろうと想像できる、呼吸してる空気の成分には誰か知らない死者の燃焼成分が混じっていても不思議はない。
船の事故などで、水中で亡くなった方の場合は海洋生物に食べられ、そんな海洋生物は人間をはじめとした陸上生物にも食べられていることを想像するとやはり循環が感じられる。
二つ目は、定住や移住あるいは引越しや仕事の出張のように生きて生活する場所としての移動が循環に感じられるというもの。
三つ目としては、関係する人間関係にも循環という視点は当てはまるかもしれない。
他にも、生き方として同じ過ちを繰り返すというのも何かの循環を感じる事ができる。
循環してるものを想像すると、水は世界中のどこにでも到達可能であるとともに、砂漠のように水の循環が感じにくい世界もあるが、そんな砂漠も境界は水の循環が感じられるものだ。
巡って来ないようでも、実は隣り合ってたりするのだ。
人間の欲望を駆り立てる循環するものとしてはお金が頂点だろうか?
日本には諺として金は天下の回り物というのがある。
この諺の由来を調べると、真面目に働くことを奨励するためのもののようで、あまり面白味は感じない。
しかし、現代のように格差の時代になると、神や天の摂理としてカネの循環があるように感じられる。
この場合の循環は、極端に偏ったものだ。
お金を水のようなものだと考えると、
植物が育たないほど水が循環しない砂漠のようにお金が循環してこないのは辛いが、洪水や津波が押し寄せて何もかも根こそぎ破壊されるのも辛い、ということは莫大なカネが循環してくると、想像よりも苦しいことが起きるのかもしれない。
もっとも莫大なカネと言われても、想像してる金額は人によってまるで違うだろう。
こういうことを考えていると、循環と言っても多種多様な循環があることが想像できると共に、循環に関しては不満があっても不満を露わにするよりも、ありのままを受け入れることの方が賢明に感じられる。
なぜなら、巡って来ないようでも、実は隣り合ってても何の不思議もないからだ。