違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

誰もが脳内で他人のストーリーを組み立ててる?

ニュースなどで事件や事故の詳細が不明で被害の発生だけを伝える第一報を知った場合、多くの人が勝手にそのストーリーを組み立てようとするだろう。

 

加害者と被害者の関係を仕立て上げたり、善(正義)と悪の対立を描いたり、このような場合はそれなりの時間をかけて関係性が醸成されるのでそこでもストーリーは広がっていく。

 

続報が出るたびにストーリーを修正しながら組み立て直すということを繰り返す。

 

時間を掛けての関係性が事件や事故につながった場合には動機が存在するケースが多い。

 

 

その一方で、当事者には全く面識がない場合というのもある。

 

偶然やたまたまや不注意や不運としか言いようがないように見える要素が起こす事件もある。

 

瞬間的に、ごく短時間のうちに動機が形成されるという場合もあるだろう。

 

このような場合でも、誰でも共感できるようなストーリーを連想することは可能だ。

 

小説や脚本で描かれるストーリーは、実際にあったことや、自分が経験したことや身近な誰かが経験した出来事も含めて、これまで見聞きしたパターンも参考にしながら脳内で組み立てて描かれてる。

 

 

推理小説の世界では、昔は誰が犯人なのかが最後まで謎として描かれていた。

 

最後まで犯人を判らなくするための隠し味がトリックという飛び道具だが、トリックにリアリティが薄いと興醒めになる。

 

必然的に犯人探し以外のテーマにシフトせざるを得なくなる。

 

重要なことはリアリティだ。

 

やがて、犯人探しよりも、動機を巡る人間関係という人間ドラマを描くようになった。

 

このパターンはアットホームな分野でもだ。

 

ただの恋愛だって事件や事故として描くことはできるし、家族ドラマであれば子供の運動会や受験だって事件になる。

 

ごくごく普通の日常だって描きようによっては他人の目をハラハラさせるのだ。

 

スパイスになるのは、心配事や不安を含めたドキドキだ。

 

電車に乗って向かい合わせの席に座ってる人の表情が暗ければ、何か悩みや不安を抱えているのだろうと想像するし、逆に自分が不安や心配事を抱えてる時に、それが大したことではなければ、悩みや心配を抱えているように見られないように振る舞おうとしたり、しかし悩みや心配が大きいと他人からどう見えてるかなんてどうでも良くなる、そんなことには気が回らなくなる。

 

 

子供が一人で楽しそうに笑顔でいると、いいことがあったんだなとすぐ分かる。

 

もしかすると無邪気なイタズラでも考えていたかもしれない。

 

どちらにしても不快感はない、普通は。

 

しかし、大人が一人で楽しそうにしてると、多分見てて気持ち悪い。

 

良からぬ企み事でも夢想してるのかと想像してしまう、普通は。

 

 

このような時に、普通ではない展開をリアリティ高く描ければドラマや脚本として成立する。

 

 

私たちは、自分ごとだけでなく、他人のこともあれこれ想像してストーリーを組み立てる。

 

いや、むしろ想像するのは他人のことの方が遥かに多いかもしれない。

 

ビジネスで活躍したいならば、活躍してる自分を想像してストーリーを組み立て、それに沿って行動すれば良いのだが、私の場合はあまりそういうことはしなかった、というよりもできなかった。

 

ドラマや脚本の出来の良さを味わってる時は間違いなく共感している。

 

良い意味での共感であっても、なぜかしら同じようには行動してこなかった、正確にはどうだったのかがよくわからない。

 

 

他人の行動や振る舞いに関しては勝手にあれこれストーリーを作るが、自分事としては気の利いたストーリーが作れない、今にして思うとそんなに難しくないように感じるのだが。

 

 

自分が組み立てたストーリーと実際の人生を一致させることが自己実現なのだろう、言うほど簡単ではなさそうだ。