違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『メビウスの輪(帯)』のようなデジタルとアナログの関係

辞書的にはデジタルとアナログは対義で、新旧に近いイメージを持ちやすい。

 

だからデジタルに強いのは若者でアナログに強いのは年寄りとイメージになりやすく、その流れでデジタルに付いて行けないのが年寄りとなりやすい。

 

私もついついそういう前提でデジタルとアナログを捉えがちだが、ふと思ったのが、若者にはデジタルという選択肢しかないことが多いのかもということだった。

 

ここで一つだけ整理しておきたいのは、若者や年寄りという表現を多用してるが、ここで言う年寄りとは成長期にデジタルという選択肢がほとんどなかった世代のことでWindows95が出た1995年に成人していた人を指している。

 

環境による個人差が大きいとは思うが、ざっくりと40代半ば以上が年寄りだ。(あくまでも私の定義)

 

40代半ば以上というのは当然ながら70歳や80歳も含まれるし、90歳や100歳がいても不思議はないので、40代半ば以上で一括りだ。

 

年寄りにとってはデジタルもアナログ的に理解してるはず、どういうことかというと、日本で英語を学んでもネイティブスピーカーにならないようなもので、全くの異文化としてというよりも、日本語に置き換えるとどうなるかという視点で英語を見るようなイメージで、デジタルをアナログ的に理解してしまっているかもしれない。

 

念のために書いておくが、アナログ力が低い年寄りも少なからずいるのは当然なので、そういう人のデジタル力も推して知るべしだ。

 

 

もちろん人間活動の大半は身体を活用するという意味ではアナログなので、デジタルネイティブと呼ばれる世代でも身体活動に関してはアナログ人だ。

 

以上のようなことを前提として考えた話。

 

 

Twitterを見てると、デジタル派の人は二者択一を求めたり迫ったりする傾向が強いのに対し、アナログ派の人の場合はもう少し選択肢に多様性が生まれるという書き込みがあった。

 

また、アナログからデジタルへの移行期を実際に体験したクリエーターの方が、『簡単に早く、安く』と進化したデジタル機材がこの20年で、そうではない現実も生み出しているが、もう後戻りはできないので、結果的に選択肢が減ったことを実感してると語っていたものがあった。

 

受け身で読んでると、そうかもしれないと思える。

 

多様化の時代なんて言われるが、キーワードは減少する選択肢となるだろうか。

 

 

必然的に未来に向かってのキーワードは、選択肢を増やすとなるだろう。

 

選択肢の減少は、デジタルが二者択一と相性が良いことも関係してるはず。

 

 

人間そのものがアナログな存在である以上、人間が使うアナログとデジタルはきっちりと線引きできるようなものではなく、肝心要な部分は重なり合ってるはず。

 

 

何が言いたいかというと、若者のことをデジタルに強いと言ってる場合の多くは、コンテンツの消費者としてスマホ中毒になってるようなことを指していて、決してプログラムの達人ゆえの開発者やクリエイターではなく、むしろ決められた範囲のルーティンワークに従事する社畜を意味し、自身の感性を活かすわけでも好奇心を満たしてるわけでもない、当然アナログ的な感性はほぼ育ってない可能性が高いので分析の質が低い人が多いはず。

 

若者は若者なりに選択肢の減少を余儀なくされているのだ。

 

一方でアナログ的な感性を高めてる年寄りの一部は、その感性をデジタルでさらに花開かせられる可能性だって秘めてるだろう。

 

問題は、年寄りにそのために必要な好奇心や探究心や体力が衰えずに備わっているかどうかだ。

 

 

 

 

 

2004年に出版された東野圭吾の『片思い』、性同一性障害をテーマにしたサスペンス仕立ての話でこんなことが書かれていたのが今でも印象に残っている。(記憶を辿ってるので表現は正確ではないかも)

 

『男と女は表と裏の関係ではなく、メビウスの輪(帯)のようにある部分を捉えると表と裏のように見えるが、その表と裏は連続的につながっている』

 

 

時代の流れは圧倒的にデジタルで、アナログが駆逐されつつあるように見えてるかもしれないが、デジタルとアナログもメビウスの輪(帯)なのかもしれない。

 

 

メビウスの輪(帯)といえばこんなものもあった。

 

欲を捨てねばと悩む若き修行僧が、『欲を捨てたい』と思うことも欲ではないのかとさらに悩むという話。

 

 

人間は、一体化して不可分なものの片方に関して悩むことが多い生き物なのだ。