今朝こういう記事を見かけた。
文章や画像を自動生成する「ジェネレーティブAI」の“ゴールドラッシュ”が、いまシリコンバレーで起きている
記事の中には、最近のAIがどのような順番で実用化していったかが書かれている。
大小さまざまな企業がAIの開発を進めた。おかげで顔認識技術は世界中に広まり、常に話を聞いてくれる音声アシスタントが家庭に導入され、AI技術があらゆるガジェット、アプリ、サービスに埋め込まれるようにもなったのである。
そしていま、世界的に有用なジェネレーティブAIのアプリケーションを探す競争が始まっている。
先日、仮想通貨やメタバースの界隈が注目してる分野にNFT(非代替性トークン)があり、そのNFTが注目してる分野の一つにデジタルアートがあると知った。
デジタルアートの中には、ジェネレーティブアート(ジェネラティブアートとも呼ばれる)と呼ばれる、プログラムで作られるアートも含まれる。
そのプログラムと著作者(個人だろうと法人であろうと)が完全に紐付けばオリジナルとして唯一無二になり、コピーは自動的に偽物になる、その役目を担うのがブロックチェーンだが、全幅の信頼を寄せられるとはまだ思えない。
肉体を持った人間はアナログの存在で、その肉体や手や足を使っての表現は基本的にはアナログそのものであるが、その領域にデジタルが侵入してるのだ。
このことに違和感を感じる人もいれば、自然な流れだと思う人もいて賛否は大きく分かれるはず。
頭で考えて賛成したり反対したりもあれば、感情で賛成したり反対したりもあるだろう。
アナログの領域にデジタルが侵入してくることを考えていると、写真と絵の違いを自然と考えてしまう。
今となっては写真や絵がアナログであろうがデジタルであろうが、あるいは写真であろうが絵であろうが、良いものは良いし、ダメなものはダメだと判断するし、その判断の根拠は純粋に個人的な感情と財産的資産的な価値や世間や他人の評価の混在によって、という意味では大して違いはないのだ。
AIがどんなに進化しようが、どんなに頑張ろうが、その目的が人間の関心や興味を惹くことが目的ならば相変わらず主役は人間なのだから。
新しい仕組みが登場すると、少し時間差で盛り上がるのが規制や法解釈なのも、アナログであろうがデジタルであろうが大した違いはやはりない。
その程度ならば人間が主役であることは揺るがなそうだ。