食欲、睡眠欲、性欲は三大欲求と聞かされ続け、そのことにあまり疑いを持つことも少なかったのだが、改めて考えると三大欲求と言われるほど絶対普遍性があるとも思えないのが現代だ。
人類の生存を脅かす存在として大きな障害として長らく飢えがあった。
今でも世界全体を俯瞰で見ると飢えに苦しむ人は多いが、
先進国(ある程度経済発展し、グローバル化の恩恵を受けてるような国)に関しては飢えは大きなテーマではなくなっている。
食欲に関しては、食べなきゃ死ぬし、健康の維持もできないが、先進国の国民にとっては美味しいということがより重要になっている。
飢えがテーマだった時の食欲と、美味しいがテーマの食欲は同じものだろうか?
あるいは、筋トレに勤しんでる人が筋肉の発達維持のためにタンパク質やビタミンを効率的に摂取することを考えた場合の食事は、重要度は高いがもはや食欲とはリンクしてなさそうにも感じられる。
食事そのものは重要でも、食欲そのものの定義すら変化してるし、定義できないくらい多様性が生まれてるように感じられる。
生きてる時間の3分の1は寝ていると言われる。
この単純な理屈にも疑いを持つことは少ないが、電気がなかった時代を想像すると、今よりも夜は活動や行動には不向きだったはずで、その分昼間の活動や行動は夜の分まで賄う必要があったはず。
昼間の疲れで夜は眠たくもなるだろう。
翻って現代、昔に比べると日中の体力消耗は少なくなり、夜は起きて活動行動しようと思えば日中と同じようにできることが増えたこともあり、単純に睡眠に当てる時間が減少傾向になるのは必然だ。
それ以外にも、情報や通信、物流すら24時間年中無休なので、寝てる暇なんかないという意識を持つ人も少なくないだろう。
また、理由は様々だろうがストレスも多くなったことで、寝ようとしても寝れない人も増えている。
現代の睡眠は、したいという欲から生まれた行動というよりも、せざるを得ないという強迫観念で捉えるものにすらなっている。
日中の活動や行動で適度に疲れれば自然と夜は睡魔に襲われるもので、その生理現象に抗えないことが睡眠欲と呼ばれていたが、睡眠のあり方自体が単純なものから複雑なものに変化している。
さらに、最近では睡眠の質をモニターするためのスマートウオッチなどもあり、睡眠の採点化が行われていて、一喜一憂の対象になっている。
朝スッキリ目覚めたつもりでもスマートウオッチで睡眠の点数が低いとスッキリした気分も台無しだろう。
実際にはスッキリした目覚めではないのに睡眠の点数が良いと妙に嬉しい気持ちになったりするのは、もはや睡眠が欲とは無縁のものになってるからのように感じる。
そして性欲もまた同様だ。
先進国における少子化ともリンクする。
食欲と睡眠欲は自分自身という単独の欲求だが、性欲に関しては相手が存在する。
相手が存在する場合の同意や合意、また同意や合意の内容や許容範囲を巡って意に反するコミュニケーションを生むことが性欲に関連して増えると、トラブルやストレスが生じるくらいなら、性欲は満たされなくても大したことではないと感じるようになるのもまた必然に思えてくる。
三大欲求と言われる食欲、睡眠欲、性欲の存在感が薄くなる理由としては、他の欲求の存在感が増してるからだとも言われる。
これはこれで価値観の多様化分散化の時代だからとなるのかもしれない。
三大欲求から普遍性が失われた現代に、普遍的な真実なんてあるのだろうか?
普遍性が多数存在するような場合は、世間への迎合が最適解になりやすいかもしれないが、それはもう消えたのだ。
自分自身の中に確固たる自信を持てずに、安易に世間に迎合しようとしても、もはや世間に共通する答えは存在しないと思った方が良い。