違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

人生の軌道を狂わせるのは寂しさ!

動くものの道筋を軌道と呼ぶが、夜空に輝く星の動きも軌道を描いている。

 

軌道を描いている星の数は一体どのくらいあるかと言うと、それこそ星の数ほどあるのだ。

 

 

これだけ膨大な数の星が、たまには衝突することがあっても、ほとんどの星は衝突することなく軌道を描いている。

 

軌道には、壮大なドラマがあるようにも思える。

 

 

そんな軌道は比喩的な意味で使われることも多い。

 

人間の生き方も比喩的に軌道と表現されることがある。

 

 

ネットやTwitterで「人生」「軌道」で検索すると、膨大な「人生はいくらでも軌道修正できる」という書き込みが出てくる。

 

そう思い込んでる人が多いからなのか、それともそう思いたいからなのかは分からないが。

 

軌道修正ができるというと、自由に好き勝手に軌道を選べるというイメージがあるが、本来の軌道は力学的なバランスで成り立つものだ。

 

自然界や宇宙に存在する軌道は、重力や引力とのバランスで決定される。

 

 

では人生の軌道の場合、重力や引力に相当するものは何なのだろうか?

 

 

寂しさにも様々なものがあるだろうが、人それぞれの人生に作用している重力や引力のバランスを崩させるのは寂しさなのかもしれない。

 

 

 

寂しさが厄介なのは、寂しいとストレートにアピールせずに、別の感情にすり替えて、本人ですら寂しさが原因だと気付かない点にある。

 

 

また、寂しさは依存に繋がりやすく、依存する相手が人ならばその気持ちを愛だと勘違いしがちで、依存する相手が人以外だったら中毒になりがちだ。

 

依存の代表例を上げると、

 

  • アルコール

 

  • タバコ

 

  • 薬物

 

  • 過食

 

  • ギャンブル

 

  • 買い物

 

  • ゲーム

 

  • DV

 

  • 虐待

 

  • ストーカー

 

 

など。

 

これらを見ると、この依存分野は現代ではビジネスの市場としても機能してることが分かる。

 

 

 

 

では一体、寂しさとは何なのだろうか?

 

 

語源を遡ると、「人の気配がなく物音がしない」という意味らしい。

 

それに対して現代に用いられる「寂しい」は、周りに人がいるのに、物音はたくさんしているのに感じるものになっている。

 

つまり、質的に全く違うことばになっている。

 

 

昔の寂しいには、寂しさを感じてる当人は不安を感じたり、心が不安定だったりするわけではなさそうなのに対して、現代の寂しいには、心が不安定な様子が感じられる。

 

昔の寂しいは、自分の外側の環境や状態を示すことばだったのに対し、現代の寂しいは、自分の心や内面を示すことばになっているのだ。

 

心が不安定ということは、自己肯定感が低いということで、自己肯定感が低いということは、「自分で自分が好きになれない」という状態に近いのだろう。

 

 

上手く行かないことが続く時に、自分を好きになれないことがあったとしても、そこから抜け出す方法を考えてる限り自分を嫌いになったりはしない。

 

しかし、抜け出すことを考えずに、適度に折り合いを付けようとし出すと、何かに依存することが始まる。

 

 

寂しさが嵩じて依存に発展した場合の依存は脳の病気だと世間では位置付けられるようだが、寂しさ自体も心の病気で、心が体や行動への悪影響のきっかけになっているのだ。

 

 

成人病や生活習慣病は複雑怪奇な病だが、基本は食べ過ぎが原因で起こる病気。

 

人間のDNAには、飢えに対する備えはプログラミングされてるが、過食に対してはプログラミングされてないので、過食が原因で複雑怪奇な症状が出ると思える。

 

逆に寂しさは、DNAレベルでは自己肯定感を阻害するようにはプログラミングされてないのに、定義が変化したら別のプログラミングされていた心理学的な何かが刺激され暴走し始めたように感じられる。

 

 

独りでいることを寂しいと感じるのは、かなりの危険サインだと思った方が良さそうだ。