いつの時代も活路を拓くために必要なことは実力だった(はず)。
運の方が大事だという意見も多いかもしれないが、運も実力のうちと言われることも多いので、実力には運も含むものとする。
ただ、その実力とはというと中身に目を向けると時代によって違いがあるし、時代というよりも属する環境によってと言った方が相応しい場合も多い。
現代でも通用してる、あるいは通用すると思い込んでる人も多かったり、ちょっと違うなと思いつつ代わりになる価値観を見つけられずに仕方なく従ってしまう人が考える実力は、学歴だったり、人脈だったりが根強い。
学歴だったり、人脈が機能する場合は、発揮される実力とはアウトプットとしてのパフォーマンスというよりも、敷かれたレールに乗ることであったり、人生という列車の切符を手に入れるようなもので、一旦手にするとその後比較的長期間それだけで通用するというもので、別の表現をすると安定とも呼ばれる。
しかし、学歴は実際に何を学び研究したかが問われ、その結果何ができるかが問われるようになっている。
人脈も同様で、ただの知り合いでは意味がなく、人と人を結びつける能力を持ってることが問われるようになっている。
ただし、問われてはいるが保証されてるかどうかは不明なので、判断においては錯覚や見切り発車は付きものになる。
その結果、現代における実力は大きく二つになる。
- 保証された実力
- 錯覚された実力
保証された実力の多くは、過去の実績で判断されることになる。
実績とは何かが問われるということは、実績を錯覚させるという余地が生まれる。
これに加えて、実力を錯覚させるという要素も加わるので、実力の評価が行われる舞台上では錯覚の占める割合が非常に大きくなることになる。
評価に錯覚や見切り発車が生じる現場では、その不確定要素を投資と呼ぶことが多い。
実力を評価することを投資と呼ぶようになることで、厳密なことを要求するようで、半分は失敗することを許容する空気が生まれることになる。
この場合の失敗には、本当は実力があるのにその実力に気付けないという場合も少なくない。
実力を高めるという市場では、自然と実力を錯覚させるというベクトルも強くなる。
詐欺の原点であり、究極でもあるだろう。
混沌とした時代は自然と実力主義とか成果主義が台頭するが、その意味は人によって解釈がまるで違う。