デジタル化した社会ではデータがものを言うようになる。
データが雄弁になればなるほど、証拠やエビデンスも脚光を浴びるようになるのは必然。
つまり客観重視。
客観の比重が増えるほどに主観は扱いが軽くならざるを得なくなる。
現代に鬱や心の悩みが多いことと無関係ではないかもしれない。
客観を支えるのは主観が排除されたデータや情報。
では主観とは分かりやすく言うと何になるのだろうか?
主観とは、極めて個人的なもので、本人の中では明確なものだが、他人には伝わりづらかったり共有されづらかったりするかと思えば、伝わって共感されてもそれ自体が相手の主観でアレンジされる。
主観とはハッキリしてるようでいて曖昧な『イメージ』なのだ。
イメージだから先入観とも固定観念とも言えるし、誤解や錯覚にもなり得る。
その先入観や固定観念が間違っていても、間違っていると自分で気付くまでは客観的なものと同一の効果を自分自身に対しては持つ。
如何に客観重視になろうとも、一人一人の人間が主観を持たない生き方なんて不可能。
社会全体あるいは組織やチームとしては客観重視の流れに逆らうためには運と実力の合わせ技が必要になる。
例えば二刀流の大谷翔平。
栗山監督との出会いが無ければ如何に実力があっても実現できなかった。
二刀流は無理だという客観的なデータの前では、大谷翔平の主観と実力や努力だけではどうしようもなかったが、そこに栗山監督の主観も加わっての合わせ技で二刀流は可能になったのだ。
主観の勝利の象徴ではあるがあくまでも例外扱い。
例外であっても一旦始まって、素晴らしい実績が客観的データとして蓄積されると、客観の有り様の一部が上書きされたはず。
処世術として客観重視の現代社会に適応するために、日常生活ではできるだけ主観を押し殺し、SNS辺りで毒として主観を吐き出して心のバランスを取る人がいるとすると、強烈な毒を吐いてる人ほど日常生活ではおとなしく自己主張がないのかもしれない。
瞬間的なリアクションほど主観的な反応になるはず、代表例が怒りの反応。
怒りの反応は、主観的な正義の反応でもあるだろう。
この主観的な反応を6秒我慢できると、客観的な反応に持って行けるとするのがアンガーマネジメント。
客観的に正しい事なかれ主義を貫くか、それとも万に一つの可能性でもヒーローになれるならと主観を前面に押し出すか、大いなる悩みだ。