違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

疑わしきは罰される

容疑者の実名報道は是か非かをめぐる議論は尽きない。

 

冤罪だったら信用回復はほぼ不可能という意味では取り返しがつかない。

 

一方で、本当に真犯人だった場合、実名報道されていれば新たな被害者を防げたかもしれない。

 

両極端なこの二つが起こりうるからだ。

 

その一方で、現代を生きる者として強く意識すべきことは、疑われたくなければ疑わしい行動を取らないということの大切さだ。

 

これは事前に危険を察知する能力とほぼ同義でもある。

 

現代では話に尾鰭がつくことは避けられない。

 

尾鰭をつけられたくなければ、行く必要がない場所には出かけないことだ。

 

そんなことを感じさせるツイートがあった。

 

元となるのは次。

 

 

 

 

容疑者は否認してるとしながらもリンク先の記事内では実名が出ている。

 

こうなると独り歩きが避けられないのが現代だ。

 

 

 

 

さらに、

 

 

 

 

この流れで情報を受け取ると、脳内では情報に沿ったストーリーが組み立てられる。

 

 

子供に接する仕事をしていた人物が、日々の仕事で強いストレスを抱え、子供に対する憎悪を募らせ、その子供が成人することにも憎しみでも感じたのだろうか、などと。

 

 

最近頻発してる強盗事件とも共通点が感じられる。

 

被害者に被害に遭う心当たりがないという点だ。

 

自分の知らないところで自分が被害のターゲットにされるのだ。

 

実名報道が間違いだった場合にも当てはまるだろう。

 

法律を勉強した者ならば、あるいは刑事ドラマなどが好きな人ならば「疑わしきは罰せず」を知ってるだろうし、そのために必要なのが自供や証拠。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/疑わしきは罰せず

この言葉は事実認定の過程を裁判官の側から表現したものである。これを、当事者側から表現した言葉が推定無罪であり、ふたつの言葉は表裏一体をなしている。

 

 

しかし、情報が勝手に独り歩きする現代では「疑われたら罰せられる」にシフトしてるのだ。

 

罰するのは法律ではなく世間。

 

何もやってないから大丈夫とはならないことが、増えることはあっても減ることはない、と理解しておく必要がある。

 

「魔が差した」という言い訳は全く通用しないし、何もしてないのにただその場に居合わせたということも大きなリスクを孕むようになっている。

 

処世術の上書きが必要な人は多いだろう。