耐久レースではレース開始後数時間経過すると、トップが最後尾を追い抜くというシーンが確実に生まれる。
多くの場合、トップはあっさりと最後尾を追い抜き周回遅れにするが、ごく稀にトップと最後尾が熾烈なバトルをしてるかのようなシーンが見れることがある。
最後尾の意識に火がつくのかもしれない。
おもしろいことに、そこから見た人にはトップ争いに見えるのだ。
人生も耐久レースのようなものだ。
人生に同じようなことが起きていても不思議はない。
人生にはさらに不思議なことも起こり得るかもしれない。
一周先を行く理想的に見える生き方が、実は周回遅れな生き方だなどと。
逆にいうと、周回遅れに見える方が先を行ってるのだ。
一周先を行く生き方としてお手本になるような生き方のテンプレートは、地球は無限の存在だと思われていた時代の延長線上にあるものだ。
お金やエネルギーをふんだんに使うことで可能な生き方だ。
しかし、地球は有限な上に、生きてさまざまな活動をしてるが、そのどれもがまだまだ未知が多い。
未知が多いからか、未知が多いにも関わらずか、有限ゆえの持続可能性が問われるようになっている。
そのせいで、周回遅れな生き方が突然ワープして、トップ争いに加わり出したのが現代だ。
俯瞰して時代を見ることができる人の多くはベクトルの変化を感じているはず。
しかし、だからと言って行動やその前提となる思考のベクトルを変化させるのはことばで言うほど簡単ではないのは、全ての人が一個人であるとともに、一員の一人という役割を持っているからでもある。
社会の一員、会社の一員、家族の一員、これらは孫悟空の頭の輪のように人を締め付け縛り上げるのだ。
変化が起きる時や、変化を起こそうとする時に頭の輪っかが締め付けられるのだ。
しかし実際には締まってない。
一員としての行動に重きを置きすぎると、頭の輪っかが締め付けられてるような錯覚や暗示に陥りやすいだけ。
『ポツンと一軒家』を見るたびに、一軒家にお住まいの方は一周先を行ってるなと感じることが多い。