わたしのブログの中で一番読まれているのが『所与性』について書いたものでコレ。
作家で演出家の鴻上尚史さんの人生相談に触発されて書いたものだが、このブログに辿りつく方のほとんどが『所与性』や『所与』をキーワードにして検索の結果だ。
鴻上さんは、
所与性とは続いていることを変化させない、今あることを受け容れるという世間の原則。
と説いてます。
久しぶりに、『所与性』というキーワードでTwitterを検索してみると、鴻上尚史さんの次のTwitterが目に付いた。
応援します。黙動も、黙食も、そんな言葉、日本語にはありません。今までの流れを守っているだけです。所与性のロボットです。黙って協力して、黙って食べるなんて。大人がやってみなさいってなもんです。大人は、できません!
— 鴻上尚史 (@KOKAMIShoji) February 20, 2019
このツイートの流れには賛同するとともに、後ろめたさを感じるもう一人の自分自身もいることに気付く。
例えば、考え事をしようと喫茶店に入った場合、周りがざわざわして話し声が聞こえる事はちっとも考え事の障害にはならない、もし障害になるとすれば自分の考え事よりも周りの人達の話の方が興味深くて聴き耳を立ててしまうような場合で、これは根本的に自分自身の集中力が不足してるのが原因だ。
このような場合は、自分の集中力の無さを嘆くことはあっても、周りのざわついてる人達に腹を立てることはない。
しかし、上記のツイートのように本来静かにするべきだと思っている場所で会話をする人がいたり、携帯電話を使う人がいると、腹が立つ自分自身を感じ、それが集中力の不足に起因してることが分かっていても我慢し難いものに思うことが少なくないのだ。
だから、少し後ろめたさが付き纏う。
このような時に、昔は許容できていたことが今は許容できなくなっていると思ったりするが、そもそも昔のことをきちんと覚えていないので比較のしようがない。
時間をかけて核家族化が進み、さらに子供に個室が与えられるようになり、一人暮らしも増え、現代では自分だけの空間を持つことは珍しいものではなくなった。
わたし自身を振り返ると、自分のテリトリーだと思っている場所や空間や進路を邪魔されると腹が立つような気がするが、そもそも自分だけの空間ではないオープンスペースでも腹が立つことがあるのはなぜだろうかと考えてみた。
こんな話がある。
「あおり運転したことある?」東名・中井PAで聞きました・・・全員が「ある!」 2017/10/20
「モーニングショー」が東名高速道路・中井パーキングエリアで15人のドライバーに聞くと、全員が「あおりをしたことがある」と答えた。「ストレスがたまっていた」「高級車に乗って気が大きくなった」「ゲーム感覚で勝者になりたかった」「急いでいた」「癖になっていた」などと話す。
サンプル数が少ないとはいえ、当てはまる人は多いだろうと想像できる。
されると嫌なことを知らず知らずのうちにしてしまう、そんな時代になっているのかもしれない。
所与性は、古い価値観に囚われた人が貫く姿勢だと感じられるが、古い価値観とはテリトリー意識のような気がする。
価値観の多様化は、テリトリー意識にもズレを生じさせているとすると、あちらこちらでテリトリー侵害が起きていてもおかしくない。
自分のテリトリーを侵されたと感じた人は、その怒りを表現し、仕返しをしようとするかもしれない。
しかし、テリトリー侵害をしてると思われてる人は、他人のテリトリーを侵そうとする意思も持ってないし、自分の行動が誰かのテリトリーを侵害してるなどとは全く思っていないのだ。
こういうズレが世間の至るところで起きている。
音が原因で不快感を感じる人をミソフォニアと呼ぶが、不快な音を出す人を表現することばはない。
多様化するハラスメントも無意識で無自覚なテリトリー侵害だと思えなくもない。
誰しも自分に嫌な部分があることを自覚してるだろう。
しかし、その大元が何なのかはなかなか分かりにくいのではないだろうか?
そんな時は、自分のテリトリー意識に思いを馳せてみるのも良いかもしれない。
しかし、深層心理の奥の奥に潜んでるので簡単には自分のことなのに辿りつくのは容易ではないかもしれないので、習慣化すると良いだろう。