情報に求められる価値には大きく二つある。
一つは、それが真実だという情報で、もう一つは、その情報はおもしろいかだ。
もっとも、情報を哲学的に捉えるならば、そもそもこの世に真実など存在するのかというテーマすらいまだに生きているし、おもしろいという評価はどちらかというと期間限定で旬のような賞味期限があり、それを過ぎると情報としての価値を失う。
真実が時の流れで色褪せない情報だとすると、おもしろい情報は真実にはなり得ない、のかもしれない。
昭和の頃のマスコミやメディアは、『一次情報には価値はない、一次情報に意味や解釈を加えた二次情報にこそ価値は宿る』と主張していた(らしい)。
翻って現代、人口の数だけメディアが存在するようになると、好き勝手に解釈された情報で溢れ、さらには根も葉もないフェイクニュースすら溢れるようになると、独自の意味や解釈を加えられた情報には価値がないと言われるようになった。
結果、意味や解釈が加えられる前の元情報(=一次情報)にこそ価値が宿るなどと言われるようになった。
この変化をシンプルに捉えると、『無い物ねだり』となりそうだ。
普通に生きていると、常に『今』に存在することになる。
リアルタイムで変化を感じているはずなのに、それを変化とは感じない。
過去と向き合った時に初めて変化があったことを実感できる。
砂浜を歩いていて、ふと後ろを振り返って延々と続いている自分の足跡を見て、自分が歩き続けていたことが実感できるようなものだ。
では、未来に向かうように、この後どのように足跡は刻まれるのか?
そうなった途端にすべては想像になる。
未来を意識し、どのように変化するかをいち早く察知し、最先端の波に乗りたいなどと頭の片隅で思ってはいても、未来のつもりで見てるのはいつも今だから、常に遅れることになる。
情報もまた後ろにしかできない足跡みたいなものに思えてくる。