次代はAIが活躍し人間の活躍の場が無くなっていくという話をよく聞くが、これは『答え』が簡単に得られるようになるという事と意味は似てる気がする。
『答え』が簡単に得られるようになると、『答え』を求めて考えたり試行錯誤することに価値が感じられなくなるし、そもそもその一連の作業を楽しめなくなりそうな気がする。
だから、AIが発達するような高度な社会にはおもしろいことが少ないような気になってしまう。
このような気持ちになってしまう大前提として、『答え』を得ることが目的になっている、ということがある。
そして、『答え』の前に『質問(=問題)』があるのだが、『答え』を得ることに価値があった時代は、『質問』にはあまり価値が無かった、と言うのは課題は目の前に常にぶら下がっていたからだ。
翻って、『答え』が簡単に得られるようになった現代では、更に高度な答えを求めることよりも、上手な『質問』を生み出す事にこそ価値が宿るのかもしれないと思えてくる。
アインシュタインが相対性理論を生み出すキッカケになった自問が、「もし光線の上に乗って移動したら何が見えるだろうか?」だったように。
昔だって良い『質問』は重要だったが、昔は『答え』は『質問』の遙彼方にあることが多かったので、注目されなかった。
ケヴィン・ケリーは、著書の中で『良い質問』に関して次のように言っている。
- 良い質問とは正しい答えを求めるものではない
- 良い質問とは、答えがすぐに見つからない
- 良い質問とは、現在の答えに挑むもの
- 良い質問とは、一度聞くとすぐにその答えを知りたくなるが、その質問に出会うまではそのことについて考えてもみなかったようなもの
『質問』に対する『答え』が現代ではなく未来にあるとするならば、その『質問』は評価されないので、繰り返される『質問』は『答え』が現代にあるものばかりになるので、その『答え』に辿り着くスピードを競うようになる。
現代が『良い質問』が出にくい時代になっているのは、時間が掛かることは嫌がられるからだ。
雇われの立場でのビジネスの場では、時間の掛かる事は嫌がられるし、それに抵抗することはストレスにしかならなくなるので、時間を掛けて『良い質問』に取り組むためにはプライベートを当てるしかない。
自分自身のために『良い質問』を考えてみることは、退屈しのぎになるとともに、思わぬ発見につながる可能性もある。
一番分かってないのが自分自身の気持ちと言われることもある位に、自分のことは後回しにしてる人が沢山いる。
人間は、人それぞれ異なる常識という呪縛に囚われてることが多い、皆そうだろうと思いながら囚われてしまうのだ。
そんな時にこそ『良い質問』が重要になる。