2018年4月、番組開始と同時に順調に人気が出たチコちゃんの決めゼリフは、
「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
いつの間にか人は、坐禅を組んで喝を入れられるように、
「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と言われることに快感を覚えるようになったのかもしれない。
そんなチコちゃんが炎上気味だ。
子供が視聴するテレビ番組に出演する人(教授の肩書き)のコメントにも、放映前にpeer-reviewが必要なご時世になりました。大丈夫か公共放送。ムーの記事を番組にしたのかと思った。大学教員公募の年収が200万円なのも納得。 pic.twitter.com/OvmeknnhbL
— A.Ennyu (@aennyu) 2023年7月16日
さらに、
チコちゃん、二度ほど制作会社から出演依頼あったけど、台本がそもそも間違ってて、指摘しても修正されなかったので断った(1回目がそれだったので、2回目は最初から断った)。なので、出演した教授が間違ってる以外に、間違ってる内容をTVで話しても平気な人が出演してる可能性が。 https://t.co/6cqJIKa23t
— Y Tambe (@y_tambe) 2023年7月17日
まるで、どうせ観てる奴らはボーッと生きてる連中ばかりだからとでも言わんばかりだ。
あらかじめ設定された脚本やシナリオに沿った材料集めにのみ注力し、その流れに異や違を唱えることは許されない。
許されないのは、空気的にというだけの忖度かもしれないが、最初に脚本やシナリオを設定し、その通り以外は許されないという世界は意外と多いのかもしれないし、むしろ縁遠いと思われてる分野ほど縛りが大きいかもしれない。
これが罷り通るためには絶対的なパワハラが必要になる。
このパワハラが罷り通るためには、逃げ道がないという意味での絶望や諦めも必要になる。
テレビ業界やマスコミ業界で働きたいが、どこで働こうと真実や事実を伝えるメディアなんてどうせ無いのだからという絶望や諦めだ。
そんな絶望や諦めをなぜ受け入れるのかというと、もともと使命感などないからだ。
脚本やシナリオ通りに動くことは、ある意味給料に見合っていると達観できるからでもあるだろう。
給料が少ないならエネルギー使って消耗するのはバカらしいだろうし、給料が多いならば魂さえ売れば楽だからだ。
ボーッと生きてんじゃねーよというメッセージは、お前らもっとボーッと生きろよ、そうすれば俺たちが楽だから、というメッセージなのかもしれない。
幸か不幸か今は夏で猛暑、ボーッとするにはうってつけだし、ボーッとしてても言い訳はいくらでも成り立つ。
と、ここまでは否定的な視点で展開してきた。
ボーッと生きろと言われたら普通はネガティブな意味でしか捉えられないが、どこかリラックスとよく似てるような気もする。
意味や解釈や理解が正しかろうが間違ってようが、地球は太陽の周りを回り続ける。
ボーッとしててもしてなくても、部分的な違いはあっても全体では何も変わらないはず。
アニメ巨人の星の主題歌を思い出す。
※映像はネットでの拾い絵
おもいこんだらは、もちろん『思い込んだら』の意味なのだが、この映像を見ていた当時の子供は映像の指で差してるローラーの名称が『こんだら』だと思い込み、『重いこんだら』だと思い込んだまま大人になった人もいたはず。
多分そういう人は、『ボーッと生きてんじゃねーよ』と言われるかもしれないが、悪い生き方をしてるとは感じない。
リラックスしたい人が、入り口を禅などに求めてしまうとおそらく実際にはリラックスなんて知らないままで終わるはず。
考えれば考えるほど、ボーッとするのも悪くないかもと思えてくる。