言語明瞭だが実際には意味不明なことばに付加価値がある。
日本だとバブル景気の頃から盛んに使われるようになったと記憶している。
従来のサービスや商品の単価を上げるために施す一工夫がそれに該当すると感じていた。
バブルが弾けた後は、価格が同じなら付加価値が高い方が売れるはずという考えに代わっていったように記憶する。
何かを企画したり提案する場合に、自然と考えるようになったのが付加価値というテーマになった。
しかし、現実的には付加価値として表現されることのほとんどは予定調和的で、従来のサービスや商品に余計な何かが付いてくるだけになった。
余計な機能や余計なスイッチが代表格だ。
消費者の意識としては、『それ(付加価値)はいらないから、その分安くして』と思うことの方が増えた。
映画やドラマなどがおもしろくなくなったことにも大きく関係してるように感じる。
撮影機材や編集テクニックによりコストを掛けて、従来にはない映像を実現できたことで、役者の演技や脚本の巧みさが二の次になった。
映像的なパッと見の派手さや一瞬のインパクトだけが重視されるという意味では長時間のCMだ。
15秒から30秒なら耐えられても、それが1時間以上続くとなると…。
その結果、作品が鑑賞するものとして大事なものを失い出し、ただの情報になった。
倍速視聴することをタイパ(タイムパフォーマンス)重視だなんて解説する話が多いが、おもしろいかどうかも分からない単なる情報だったら早回しで情報処理するのは極めて合理的で、Z世代やデジタルネイティブはじっくり鑑賞するに値する作品やコンテンツと出会ったことがないからそうなるだけ。
日本に来る海外の観光客が日本に感じる魅力や良さは、古い伝統的なものか比較的新しいものだとオタク文化から生まれたものが多いのは、鑑賞に耐えるものがそのくらいしかないからであり、それらの分野には薄っぺらい付加価値という価値観が侵入しなかったからでもあるだろう。
これまた日本に関してだが、書籍が売れなくなった背景の一つとしてカリスマ編集者の存在がある。
本を売るための付加価値としてクローズアップされ、確かに一時的な販売には貢献したが、圧倒的大多数をうんざりさせ、本離れを加速させたと感じてる。
付加価値としてのインフルエンサーも同類だ。
日本人や日本企業が付加価値を語る場合、付加価値を求める気持ちの根底には、そもそも自分が伝えたい、あるいは伝えるべき、メッセージを持っていないという前提があって成り立つものばかりだ。
前向きなつもりでも付加価値と表現した途端に後ろ向きになるのが、日本流の付加価値。
消費税と付加価値税の違いを論じる話も多いが、日本に関する限りは後ろ向きな話だ。
ありもしないのに存在するかのように感じるのが付加価値という意味では亡霊だ。