言語明瞭意味不明なことばに『付加価値』というのがある。
経済用語やビジネス用語としての『付加価値』と日常用語としての『付加価値』が一致しないからだ。
経済用語やビジネス用語としての付加価値は、消費税のことが付加価値税と呼ばれることがすべてを物語っている。
つまり、仕入れや原材料の加工によって付いた原価との差額を付加価値(≒利益)と呼んでいるのだ。
この場合の付加価値には理由なんて関係ない。
意味もなく高い値段を設定しても売れれば付加価値が高かったとなるのだ。
どんなに素晴らしい商品でも売れなくて大幅に値引きして売れば付加価値は全く無かったことになる。
しかし、一般的な感覚では役に立つ商品や好きになれる商品には思い入れが込もるので➕αの価値があったと感じる、この価値を付加価値と感じるのだ。
昭和の日本は新たな商品やサービスを企画する時に、全く新しいことを考えるのではなく既存のものに➕αの機能を与えることで単価を上げることに成功したが、平成に入ると不必要な機能を削ぎ落として価格の安さを実現した商品には勝てなくなった。
改良や改善をプラスすることが付加価値の元だったが、それでは通用しなくなったのだ。
これは単純に商品だけの理由だけでなく、生産や販売のグローバル化も関係するが、ハードウェア的な➕αで付加価値を図った日本に対し、今の世界の勝ち組はデザインやソフトウェア的な➕αで付加価値を図ったことの差から生まれた結果だ。
これは日本対他国の図式でもあるが、日本国内の勢力図にも当てはまる。
一般的な感覚で付加価値を考える場合、その対象が自分自身になることは少なくない。
そしてその思いがあるからこそ面接のノウハウや職務経歴書の書き方や自己啓発などの需要が絶えない。
転職市場にエントリーすることを『キャリアの健康診断』と呼んだりするのも同じだ。
自分自身の実力を高めて付加価値を高めたいと願う人が実際に取り組んでいるのは、自分という人間の価値を相手に錯覚させることにしかならないのは皮肉な現実だが。
幸か不幸か世は詐欺が全盛なので、意外と通用するから皆やめられないのかもしれない。
今日も明日も、国も企業も一個人も、皆付加価値を求めて一喜一憂を繰り返す。
これも所与性だろうか?