子供に対して『無限の可能性があるから頑張れ』と言うのはおそらく純粋な励ましや応援の気持ちからだろう。
しかし、当の子供だって徐々に自分には無限の可能性は無いなと悟るようになる、でも頑張れば活路はいくらでも開けるとは思い続けれる。
可能性を信じるという気持ちは、諦めないあるいは継続するという態度で示される。
では、可能性の中身は何なんだと問われると人それぞれだろう。
大きく分かれるのは、可能性の中身が具体的か抽象的かだ。
子供に対して向けられる可能性が意味するもののほとんどは抽象的なもので、頑張れば何にだってなれるし、どうにだってできるという種類のものだ。
可能性を限定し絞り込んで具体的に一つのことに向かうことはほぼない。
今現在の大人で、可能性を広げるために頑張った人はたくさんいるだろうが、狭めて具体化に自分を追い込んだという人は少ないはずだ。
いないという意味ではなく、少数派だという意味。
別の表現をすると、可能性を広げるというのは保険を掛けることと同じになる。
保険にはモラルリスクが付きもの。
モラルリスクは勘違いされやすい概念で、保険金詐欺的なものと思われがちだが、そうなるとリスクではなく犯罪そのものになる。
保険に関するモラルリスクとは、本来しなければいけない危機回避の意識が薄れること。
自動車保険に関していうと、事故を起こしても保険に入ってるから大丈夫と安全運転の意識が薄くなること。
可能性に関していうと、第一目標でなくても構わないと思い込むこと。
一番以外は嫌だと思うことは現代では違和感を受けやすいが、順位など関係なくこれをやりたいと思い続けているのに、違うことで妥協するようなことすら可能性を広げるという表現に含まれるようになっている。
現代に関してもっというと、そもそもやりたいことなんてなく、どれが一番給料が高いかが可能性の尺度になっている。
成果で評価を得ようとするのではなく、可能性に対する対価を求めがちになる。
つまり、評価する側とされる側の価値観の乖離は広がるばかりだ。
可能性を広げようと頑張れば頑張るほど、自分で自分の首を狭める(=絞める)。
現代はそういう時代だ。