違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『質素vs贅沢』は『絶対的vs相対的』と同じ

ラーメンには一杯1000円の壁がある。

 

お店もお客も躊躇させるのがラーメンの場合一杯1000円と言われてる。

 

物価の違いや個々の店の事情も違えば地域の相場の違いもあるが、ざっくりとラーメンの値段はどのように変化したのかをChatGPTに聞いてみた。

 

そうしたら4つの時代に分割して答えてくれた。

 

 

      1. 初期のラーメン: ラーメンは、日本で初めて紹介された頃から比較的安価な食品でした。1930年代から1940年代にかけて、戦後復興期にもラーメンは庶民の食事として愛されました。当時の価格は、数十円から100円未満程度であったとされています。

 

      1. ラーメンブーム: 1950年代から1960年代にかけて、ラーメンは日本全体で非常に人気が高まり、多くのラーメン店が新たにオープンしました。この時期、ラーメンは依然としてリーズナブルな価格で提供されていました。一杯のラーメンの価格は100円前後が一般的でした。

 

      1. インフレーションと価格上昇: 1970年代以降、日本経済が成長し、物価が上昇しました。これに伴い、ラーメンの価格も上昇し始め、200円以上になることが一般的となりました。一部の高級ラーメン店では、さらに高額な価格が設定されることもありました。

 

      1. バラエティ豊富なラーメン: 2000年代以降、日本のラーメン文化は多様化し、様々なスタイルや地域のラーメンが登場しました。価格も多様化し、安価なラーメンから高級なラーメンまで、さまざまな価格帯が存在します。一杯のラーメンの価格は、店舗や地域によって異なりますが、500円から1000円程度が一般的です。

 

 

ちなみに最近ニューヨークでは一風堂のラーメンが一杯3000円だと話題になっていた。

 

Twitterを見ると、海外ではラーメンの価格が一杯2000円から4000円と伝えるものが多い。

 

日本のラーメン屋さんでも日本人を相手にする店とインバウンド客を相手にする店では設定価格は大きく違うのだろうが、インバウンド客を多数見込めるような観光地だと家賃を含めた出店コストもランニングコストもラーメン代に比例するような気もするので、隣の芝生が青く見えてるだけかもしれない。

 

 

質素なつもりのラーメンがいつの間にか贅沢に、こういうことはラーメン以外にも起きてる変化だろう。

 

質素な暮らしをしてる人がたまに贅沢をすると新鮮に感じるというのは想像できるが、日常的に贅沢をしてる人がたまに質素を体験すると何を感じるのだろうか?

 

質素で十分だなどと思うことはあるのだろうか?

 

多分そういうことは少ないのかもしれない。

 

アウトドアやキャンプの分野で流行ってるグランピングは、いわば贅沢キャンプで本来のキャンプである野営からは外れる。

 

 

できて当たり前のことで満足するのは質素で、簡単にはできないことでなければ満足できないことが贅沢だとすると、贅沢の方が心を豊かにするような気がするが、贅沢から何を得たかと問われるとなんと答えるだろうか?

 

その答えを聞いて、質素に生きてる人が贅沢に魅了されるような答えにはどういうものがあるだろうか?

 

 

誰にだって持ってる価値観がある。

 

その価値観には大きく2種類がある。

 

一つは、偏差値のように他人との関係性の中で自分がどこに位置してるかのような価値観で、設定する相手によって変動する、つまり相対的なもの。

 

もう一つは、純粋に自分自身の内側から生まれる自分だけの価値観で、他人や世間は全く関係ないという絶対的なもの。

 

『質素』に満足できるためには、絶対的な価値観として質素な生き方を好むということが必要なはずで、たまに贅沢をしても自分の価値観が質素であることを再確認するだけだろう。

 

もちろん質素の度合いはさまざまあるので、別の人から見ると贅沢に見える場合もあるだろうが、価値観の絶対性が確立してる人は価値観に揺らぎがないので、他人や世間には踊らされない。

 

 

一方、贅沢に惹かれる人には『身の丈以上を望む』という欲求が強い場合が多く、その身の丈以上の基準が自分が設定した他人や世間になりがちで、常に価値観が変動しがち。

 

 

どんなラーメンが好きかだけからでも分かることはたくさんありそう。