今ではテレビ等で見ることもできるクライミングやボルダリング。
自分にできるかという視点で見ると異次元の身のこなしに感じるが、よく見てると当たり前のことを着実に実行してるだけ。
手や足が掴めるポイントを探り出せなければ終了だ。
逆に言うと、手や足の届く範囲、この範囲にはジャンプすれば到達できる範囲まで含めることができるが、一つ一つの動きは異次元というよりもできることを着実にやってるだけだ。
これって、分野が違うことにも当てはまる真理そのものだ。
テクノロジーの発展だって、大衆はそのプロセスを知らないし想像すらできないので、いきなり革新が湧いて出て来たように感じるが、プロセスを細部まで見渡せば、日進月歩というよりも亀の歩みのはず。
しかし、見えるのは日進月歩ばかりだと、プロセスを軽視して答えばかりを求めるようになる。
その結果プロセスは敬遠され、失われていくのは創意工夫の意欲だ。
昔だったら創意工夫はすべての人に必要だったが、現代ではそれに取って代わるのが要領の良さ。
つまり創意工夫の意識も大きく二極分化してるのだ。
創意工夫の原点は、文字通り自分で創るために工夫すること。
何を創るかというと、自分にとっての課題を解決解消するためのものだ。
創意工夫が性に合う人にとっては、買うのはあくまでも道具やベースとなる素材であって、それだけで完結する完成品ではない。
創意工夫が好きな人と創意工夫をしない人が同じものを使っていても意識はまるで異なるはず。
100均を安かろう悪かろうと考え興味がない人には意外と欠けてるのが創意工夫の意識。
アイデアを実現するためのプロトタイプを試行錯誤するためには100均は素材探しとしては宝庫。
完成度などイマイチでも全然問題ない。
何でもあるという現代に不足してるのは自分のためだけのもの、そう思ってる人に必要なのは創意工夫。
一回あたりに掛かるコストを安く上げることは、試行錯誤の回数を増やせることにつながる。
100均に限る必要はなく、本来用途とは異なる応用用途を見出すことも創意工夫。
似てるようで違うのが物欲と創意工夫。
創意工夫のつもりで物欲に取り憑かれてる人が多いのが現代。