違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

テレホン人生相談のガチャ切り

Twitterで『ガチャ切り』が話題になっていた。

 

 

 

 

どうやらテレホン人生相談に関してらしい。

 

相談者が厳しいことや自分の意に沿わないことを回答者に言われてガチャ切りしたようだ。

 

 

 

いつの頃からか聞かなくなったが、昔は一人で運転中によく聞いていた。

 

車を運転中に放送時間が近づくと楽しみにしていたし、同乗者が仲の良い人で気心が知れてる場合は、『ごめん、ラジオ聞かせて』と言って聞いていた。

 

相談者の相談内容にも、回答者の回答にも興味津々でゲス丸出しだった。

 

気心が知れた同乗者もグイグイ引き込まれているのを感じていた。

 

人生相談を聞き慣れてくると、鑑賞の仕方も変化してきた、当初は自分の方が的を射てると思っていたが、やがて一部の回答者はとんでもなくすごい人だと気付くようになってきた。

 

私が過去最強ですごいと感じたのは幼児教育評論家の大原敬子さんとパーソナリティ加藤諦三さんのコンビの時だった。

 

 

また、ラジオのテレホン人生相談を聞くようになるより随分前に、吉村達也著の『死者からの人生相談』という推理小説を読んだこともある。

 

テレホン人生相談の番組作りに関係する人物がテレホン人生相談をトリックに使って殺人を実行するという小説で、テレホン人生相談がどのように作られてるかという内部事情が明かされていた。

 

その小説によると、相談内容を聞いた相談者の知り合いや身近にいる人でも気付かないようにするための配慮はとても厳しく、固有名詞は厳禁で実際に相談を受けた時期と放送する時期を大きくずらすなどの配慮もされていると知った。

 

当然放送は録音であり且つ放送に耐えるように編集されている。

 

 

そのような前提でテレホン人生相談を理解してると冒頭の『ガチャ切り』が本来ならばいかにあり得ないかが分かるので不思議だった。

 

しかも、Twitterを見るとガチャ切りは最近ではたまに起きているようなのだ。

 

もしかして、今では生放送になったのか?、しかし生放送なんてしたらもっととんでもないことだって起こり得るかもしれない。

 

 

そんな疑問を呟いたら、以前テレホン人生相談に相談したことがあるという方から『録音ですよ』と返事があった。

 

『ガチャ切りまで含めて放送として成立すると判断されたのでしょう』とも付け加えられていた。

 

 

私が聞いていた頃にはガチャ切りなんてなかったが、厳しいことを言われながらよくガチャ切りせずに聞いてるなと感じることはあったので、私が聞いていた頃でもガチャ切りはあったのだろう、ただそれは放送されなかったというだけで。

 

 

ガチャ切りが放送されるようになったということには意味があるはず。

 

相談者がどんな属性の人物かを視聴者に想像させるにはもってこいだろう。

 

あるいは、ガチャ切りを放送しないようにすると放送できる番組素材が不足するくらい今ではガチャ切りする相談者が多いのかもしれない。

 

もしかしたら、エンタメとしてのガチャ切りの魅力に番組の側が気付いたのかもしれない。

 

 

ガチャ切りはリセットと似てるような気がするが、リセットに感じるスッキリ爽やかはなく、自己嫌悪だけが後に残るように感じる。

 

ガチャ切りした人は、相談なんてするんじゃなかったと思ってるはず。