違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

自己嫌悪の陰にある大声や怒鳴り声

Twitterを見てると、子育て中の人が子供を些細なことが原因で怒鳴ることが少なくないようで、そしてほぼすべての方が怒鳴った後で自己嫌悪も感じている。

 

怒鳴った理由は、イライラしたからというものが多い。

 

子育てでイライラしても怒鳴らないでいられるためには心の余裕が必要だろうし、心の余裕は許容範囲を広く持てるかどうかだろうと感じる。

 

さて、今日些細なことで大きな怒鳴り声を上げた。

 

相手は宅配便の運転手でこちらは自転車。

 

細かい経緯は省略するが、宅配便の運転手の動作をわたしは『こいつ俺のこと舐めてんな』と感じた、それだけなら素通りできたのだがすれ違いざまに明らかに運転手が『バ〜カ』とでもいう口ぶりを取った。

 

そこで怒鳴り合いが始まった。

 

久々にこんな大声出せるんだと思えるほど怒鳴り散らかした。

 

近所の方に不快な思いをさせただろう。

 

暴力を振るうわけにはいかない、さて落とし所をどうするか、余計な課題を背負い込むことになった。

 

渋々相手が謝った、運転手だってこんな奴と関わって碌なことはないと思っていたはず、一刻も早くその場を離れたかったはず。

 

時間にすれば2〜3分だったのかもしれないが、その後から自己嫌悪に襲われている。

 

ほんのちょっとの違いが大違いにつながるのだ。

 

自己嫌悪を感じるたびに次繰り返すことが無いようにと思いながら繰り返してしまった。

 

今回も猛省中。

 

争いは、起きたらどうするかを考えるよりも、起こさないためにはどうするかを事前にしっかりシミュレーションしておくことが大事だ。

 

争いが起きる時は、巻き込まれたと思えても、本当は自分の方が争いに寄って行ってることがあるかもと自覚するくらいがちょうど良いかもしれない。

 

 

余談だが、自己嫌悪を感じてはいるが大声を出したことは少し快感だった。

 

大声を出すというのはTPOさえ選べれば効能は大きいはず。

 

スタジアムでの応援などはそういう意味では良いのかもしれないが、たまに興奮したサポーターやファン同士が揉めることがあるので、相応しそうな状況でも注意は必要だろう。