鳥山明さんの訃報を嘆く声の中に、
『改めてマンガを読み直して唸るのは説明的なセリフやナレーションは僅かで、ほぼキャラ同士の自然な会話と絵だけで物語が進行している事。これこそが世界中で受け入れられているシンプルな理由なんでしょうね』
というものがあった。
マンガを描くという世界にもAIは進出するのだろうが、絵の上手さや描くスピードの速さの向上は容易に想像がつくが、それが上記のようなマンガトータルでのおもしろさにつながるかはもう少し遠そうな気がする。
同じことはブログにだって当てはまるはず。
どのような目的であれ書く人にとっては意義があるだろうが、AIが書くのに比べてより価値がある、あるいはおもしろいということが問われるようになると読み手にとってブログというジャンルは需要はあってもジャンクになるだけかもしれない。
最近の生活の身近にあるAIは生成AI。
元々は裏方のバックグラウンドで動作するのがAIだったが、生成AIになったことで従来の検索に置き換わる存在として個性はおとなしいが自己主張するようになっている。
従来の検索では、検索の前に興味ある対象を理解し、何を知りたいかを自分なりに言語化しなければそもそも検索に辿り着けない。
そしてさらに検索結果の内容も自分で吟味し、求めていたものかを判断しなければいけない。
検索の中にはSNSも含まれる。
ここまでやっても検索結果が期待に応えてくれないことは少なくない。
生成AIは従来の検索の不満やストレスを低減させると感じてる人はもはや検索は基本や基礎的な疑問か趣味の領域かゴシップ探しにしか使えないと感じるだろうし、生成AIを使わない人はそのような変化が起きていることにも気付かないだけかもしれない。
『次』を模索する時は現状の理解が必要になる。
現状の理解と『次』の間にあるギャップを埋めるために必要になるのが分析。
分析というジャンルはさまざまな呼び名でもてはやされる傾向が強いが、情報やデータの意味合いが変化している現代では同じ情報やデータを入手していても正しく的を射るように解釈できているとは限らない。
なんとなく静かな下剋上が起きてるような気がすると思うと自分には関係ないけどワクワクする。