違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

一つに集中収束してる?

エイプリルフールのネタかなと思う話題が流れていた。

 

夫婦同姓が続くと…2531年には「全員が佐藤さん」 東北大試算

試算は、政府発表の統計や電話帳を基に人口の多い名字ランキングなどを紹介する情報サイト「名字由来net」が提供するデータを用いた。佐藤姓の人数の推移を使って日本人の人口に占める比率を求め、伸び率を推計した。

 

 

計算方法や計算結果にはツッコミどころがあるとしても企画としては大真面目なものだった。

 

この記事がきっかけで発想が別のところに飛んだ。

 

例えば小売りの現場は〇〇年後にはすべてイオンモールになり、その中の店舗はすべてチェーン店のみになるというような未来があり得るかもと。

 

 

さらに、日本の全人口が特定のエリア、例えば首都圏の半径100km以内のみが生活拠点で、それ以外は生産や作業の現場で必要最小限の生活のみ許可されるというような未来なども思い浮かぶ。

 

そうなると本気で思ってるわけではないが、最近50年の日本を『集中と分散という観点』で俯瞰すると集中が過剰に進んでいることが感じられる。

 

生活のさまざまな場で当たり前になってきたものに行列がある。

 

日本の人口が一億人を超えたのは1967年(昭和42年)、それ以降増えたとはいえ人口が増えたから行列が増えたというよりも、分布の偏りが進んだゆえに行列が増えてるというのが正解だろう。

 

その分布の偏りは、好みや価値観ゆえに起きてると誰もが思っているかもしれないが、別の力の作用を疑えばキリがない。

 

 

最後は何か一つに収束(集束)するという未来に夢や希望が感じられるかそれともディストピア(=暗黒世界)感を感じるか?

 

 

コスパ(コストパフォーマンス)にタイパ(タイムパフォーマンス)さらにスペパ(スペースパフォーマンス)まで登場してる、共通してるのは効率重視。

 

効率の良さばかりを評価するとベクトルは一方向あるいは一点に向かうようになるのはごく当然だ。

 

少々路線は違うが一つに集中してるといえば次のようなものがあった。

 

漂うのは夢や希望かそれともディストピア感か?