満員や渋滞や行列に対してどのようなイメージを持つかは人によって大きく分かれる。
基本的に好きな人は少ないだろうが、大勢の人が集中する理由に納得できたり共感できる場合には「しょうがない」と肯定的に捉えるだろう。
少数派(私が勝手に思ってるだけかも)の満員や渋滞や行列に対して好感を持つ人は、その先に良いことがあるなら自分も加わろうとする人なのかもしれない。
私のように満員や渋滞や行列が嫌いな人は、よほどの理由がない限りそこに加わることはないはずだし、参加せざるを得ない時はイヤイヤなはず。
では、これが意見や考え方が集中するような場合、物理的な障害は何も発生しないが、それをどう受け止めるだろうか。
大勢が賛同する価値観だからと同調するということも多いだろう、その場合は多数派に属してることに価値を見出してるはず。
多数派に逆らっても良いことはないと達観することも多いだろう、これは消極的な同調だ。
事に当たって是々非々で望む人だと、他の人がどうかは関係ないはず。
これ以外にも博打のお約束のような逆張りもある、わざと多数派の価値観の反対を選ぶのだ。
しかし、逆張りがアンチメジャーである限り、価値観の根底にはメジャーへの意識がある事になるので、逆張りと多数派は意識はほぼ似てると言えるが、逆張り派の方が自意識は過剰だろう。
日々世間では不快な出来事が起きている。
合言葉はペロペロ。
その度に正義や正論のバッシングの嵐が吹き荒れるが、正義や正論は逆張りとも相性が良いので、不快の応酬の連鎖が続く。
不快な出来事に対して、意識高そうな肩書をつけた人々が逆張り的な意見を言うことが増えてるなと感じる。
肩書だけでなく発言も意識高いと思わせたいと思ってるんだろうな。
幸いなことに、一連のルフィ事件に関しては逆張り的な擁護の話は聞こえてこないように感じる。
これから世間の様子を見ながら出てくるのか、それとも一定のレベルを越えてしまうと逆張りは不可能になるのだろうか。
意識高い人は、せこく保険を掛けることを忘れてなさそう。