病名が同じ人に同じ治療や投薬をしても治り方に差が出るのは不思議ではないし、中には一向に回復しない人すらいるかもしれない。
病人ではなく、健康でかつやる気がある人に同じトレーニングメニューを与え、同じ食事を提供したとしても体力の向上や身体の発達も同じにはならない。
なぜかは分からなくてもそれなりに生きていれば経験から理解できるようになる、多くの場合遺伝子の違いで納得するが。
間近でマラソンの女子の国際大会を見たことがある。
折り返し地点の少し手前で見ていたので先頭集団から後続選手まで続々と走ってきて折り返して行く姿を延々と見たことがある。
テレビで見てるとあまり気付かないが走る姿(ランニングフォーム)は皆違う。
中には上位で走っているのにおそらく身体の中心軸が歪んでいるような人もいる、きっと長年に渡って走り過ぎたからだろうと思ったが速いのだ。
抽象論として人間は一人一人違うというのは誰もが理解できるが、それを言ったら理解はそれ以上進まなくなる。
だからもう少し分かりやすく分類を試みる人は多い。
そしてさまざまな説が提唱されてきたし、これからも続くだろう。
自分に当てはまると思える説に出会えるのはラッキーだ。
自分一人で考えていてもよく分からないから。
自分は分類上どこに位置してるのか、この場合の分類とは序列や順位で定義される種類のものではない。
タイプとでも呼んだ方が相応しいかもしれない。
自分が理解する自分というタイプと、集団の中にいるからこそ見える自分というタイプ、この二つが一致に近い方が楽に生きれるとは限らないが、少なくとも自分のタイプは複数存在し得る。
ここで重要なのは右利きなのか左利きなのかのようなタイプの違いだ。
目指してるとか理想だとかは関係なく、否応なく身に付けてしまったタイプだ。
この場合のタイプには持ってる価値観や美学が影響を及ぼす余地はあるが、あまり大きくは動かないはず。
このように考えると自分探しは永遠だなと思えてくる。