テレビを見ていてその内容に引き込まれている時に、テレビを見る以外の行動が取れないことがある。
そのような時は、視覚と聴覚とその二つから得られる情報を処理するために脳の思考回路が動員される。
この程度でもキャパシティを超えることがある。
そのような場合には、録画ができたり、ネットで動画が出回ると、自分の情報処理能力に応じて情報を分割して別途時間をかけて処理することができる。
録画を再生しながら、必要に応じてメモを取るためにポーズで止め、メモを取り終わったら再生し同様な作業を繰り返すような場合、自分が一生懸命に夢中になっていることには気付けるが、その行動が自分の情報処理能力の低さに起因してるとは気付かないことが多い。
情報処理能力を超えるとは、情報の質が難解である場合と、情報の量の多さによる場合がある。
現代社会に出回る情報量がいかに多いかを示すツイートを拾ってみた。(内容の真偽は未確認)
2011年の世界の情報量は
— みや@元小学校教員 (@miyazawa0121) January 4, 2019
過去5000年の
世界の情報総量を超えているそうです。
現代人の71.2%の人は
モノを購入する際に
他の人の意見を参考にする。
何を買うかより
誰から買うかが大事になってくる時代ですね
ニューヨークタイムズに載る一週間の情報量は、18世紀の人間が一生に受け入れる情報量より多いという。また、現在の18ヶ月間に生み出される情報は、それ以前の5000年の総量より大きいのだと。
— 林広貴 (@forefinger_ring) March 31, 2019
そら脳ミソが疲れて鬱になるわけだ。そして世界を単純化するためのフェイクが流行るわけだ。
ある試算によると
— hare@グローバル先生🇺🇸 (@Anc_HKteach) February 17, 2019
人類の歴史が始まってから2003年までに生み出された情報量の総量は
500億GB
しかし、今人類はこれと同量のデータを1分ごとに生み出している。
人類が2000年かけて作った情報量を
1分で創り出す時代を私たちは生きている。
変化が激しい予測不能な時代になるのも納得できる🤔
$ALIS 世界の情報総量は2020年に40ZB(ゼタバイト)を越える言われています。
— アリスマン@仮想通貨 (@alisman_nuhaha) November 3, 2017
馴染みのあるGB(ギガバイト)に直すと幾らになるかわかりますか?
「40ZB=40兆GB」です。
余りにも多すぎる情報量の中から自分の求める物を精査しなければいけない時が来ます。
このような膨大な情報に囲まれてる現代人の情報処理能力はというと、
人間の特徴として、1 Gbpsの膨大の入力情報に対して思考速度はかなり遅いため、前処理過程において情報を絞り込むことになります。すなわち、大量の情報を捨てています。運転中、前方で人が道路へ飛びたして来た時、その人の行動に注視して(その人以外は見えなくなり)、直ぐにブレーキを踏むか、距離があるのでスピードを緩めるだけで良いのか判断します。この特徴は「注意の欠落」と呼ばれるヒューマンエラーを誘発させ、集中している以外の重要なシグナルを見落とし、事故に繋がる危険性があります。
https://team.hatenablog.jp/entry/2014/07/25/233425
能力には個人差があるとしても、どうやら人間は情報をストックするだけならかなりの能力(記憶力に限界はないという説もある)があるが、複数の情報を同時に処理する能力はあまり高くない。
同時に情報処理する能力はマルチタスク能力などと呼ばれ現代の必須能力ともてはやされるが、厳密な意味では人間にはマルチタスク能力は無いので、シングルタスクを瞬時に切り替えることをマルチタスクと呼んでいるだけだ。
情報化時代と言われ始めて久しく、当初情報は多ければ多いほど良いと言われていたが、そろそろその考えも折り返し点を過ぎたかもしれない。
多過ぎる情報は何もメリットをもたらさないと感じてる人が増えている。
書籍や新聞が売れない背景に無関係ではないと感じている。
同様なことはアプリにも傾向が見られる。
一つのアプリであれもこれもできるものよりも、一つの機能に特化したお気に入りのアプリをたくさん持ってる方が使い勝手が良いということに気付き始めてる人が増えている。
PCでブラウザで作業を行うよりも、スマホやタブレットでアプリを通じて作業する方が心地よかったりする。
日本人のPCの利用率が低いことを嘆く声もあるし、わたしもそう思っていたが、このエントリーを書きながら、嘆く必要な無いかもしれないとも感じ始めている。
情報は多ければ多いほど良いという考えは、大は小を兼ねるに通じる。
この考えの延長線上に『保険』という概念がある。
悪いわけでも無いし、間違った行動でもなさそうだが、落とし穴の存在が感じられる。
保険の世界には『モラルリスク』ということばがある。
一般的には、このことばは間違った意味で解釈されている。
保険金詐欺を企むような心理を指すと思っている人が多いのだが、本来の意味は「保険に入っているから大丈夫」と安心して油断する心理を指す。
情報に関しての大は小を兼ねるもモラルリスクと同じで、「これだけの情報を集めて取捨選択してるから大丈夫だろう」という油断が生じる。
情報は多いことが良いのではなく、良いのは必要な情報だけなのだ。
多くの情報に接することで、必要な情報が何なのかが分かりづらいことが増えている。
情報は、不必要なものをバッサリ切り落としても何の不都合も無い時代になっている。
処理しようと思っても処理しきれない情報ならば、無いのと同じだし、むしろ無い方が良いかもしれない。
ちょっとした思い出がある。
カーナビがまだ珍しかった頃、カーナビに頼った運転をしている方と、ある目的地に向かうルートについて話をした時に、その途中にある景色や建物の話をしても、その人は全く理解できなかったことがある。
運転中に、周りの景色を見て自分が今どこを走っているかを知るというごく当たり前のことが、カーナビを使うと不必要になるのだ。
その後、カーナビが完全に普及すると、目的地が建物や店舗であっても目視では確認しないでカーナビに頼る人がほとんどになってしまった。
このような場合不必要な情報は、目視で得られる情報なのか、それともカーナビの情報なのか?
何が必要で、何が不必要か、簡単なようでとても奥の深い判断力とセンスが必要になるのが面白い。