現代の日本では政治も経済も誰かのためのものではなく、全ての人のためのものだが、実際にはかなり不思議な偏りがある。
全ての人のために行われていることでも実際には偏りが大きいので、結果の平等はもちろん建前の機会の平等ですらほど遠い存在になりつつある。
全ての人に向けられているのは『権利と義務のセット』。
勘違いしがちなのは、自分の果たすべき義務と自分が得る権利がセットになってると思いこむことだ。
しかし、実際の運用上は、自分が果たすべき義務は他人の権利を守るためであり、自分が得られる権利は他人が果たしてくれた義務のおかげである場合がほとんどだ。
この当たり前のことは、じっくり考えないと案外気付かない。
自分の権利を主張することは、知らない誰かに義務を強制することにつながり、
自分の義務を果たさないことは、知らない誰かの権利を蔑ろにすることにつながる。
『自分の行動は他人のためであり、他人の行動が自分のためになる』という事実を、上手く調整するのが政治や経済と言える。
ただし、この権利と義務を巡る自分と他人の関係は、協力というよりもむしろ闘いに近いかもしれない。
今更ながら感じるこれらのことは、昔授業で習っていたのだろうが全く覚えていないに等しい。
ホッブズ(1588-1679)イングランド
— 政治・経済重要人物bot (@seikei_jinbutsu) May 4, 2019
『リヴァイアサン』
社会契約説の創始者。人間の自然状態は「万人の万人に対する闘争」状態であるとし、それを防ぐため、人々は自然権を強大な支配者に譲渡しそれに支配される必要があるという。これは絶対王政を擁護するものだと批判を受けた。
人間は進歩してるのかしてないのか、微妙な感じを受ける。
『権利と義務』と『政治と経済』の関係を考えると、『強者と弱者』という切り口が無視できなくなってくる。
世の中にある偏りが産んだのが『強者と弱者』。
本来は切り離せない関係である『強者と弱者』は、現代社会では顕著に敵対関係になっている。
そんな敵対関係が生活の身近にあることを教えてくれるツイートを探すと見つかったのが下記。
テレビのコメンテーター全般に言えますが、陳腐な正義感をぶつける相手は弱者ばかり。
— 弁護士 星 正秀 (@hoshimasahide) April 27, 2019
強者の悪事はスルー。
それが鼻に付くので、最近は見ません。
弱者をバカにしないほうがいい。
— ほっしーメモ@心が元気になるツイートまとめ (@hossymemo) April 29, 2019
今は強者でも、いつ弱者になるかわからない。
病気やケガでいつだって、誰だってなる可能性がある。
弱者をバカにしていると、じぶんが弱者になったとき、受け入れるだけでも相当な時間と労力がかかるぞ(経験済み)
本来与える力のある強い人が
— さち (@black5allow) May 1, 2019
弱者に馬乗りになって
ありったけのモノを奪ったとしても
周りの群衆は
弱者を憐れみ
強者には冷ややかな目を注ぐだろう
未開の地を開拓する心意気をフロンティアスピリッツと呼ぶのは、未開の地であっても新天地だと思うチャレンジ精神の表れだと解されている。
本来の意味でのフロンティアスピリッツは多くの未開の地を開拓し、地球上には未開の地が無くなり、残されているのは開拓不能地ばかり。
ホリエモンが報ステに出演しているので、久々に報ステ見ている。古舘氏が火星移住計画について、「ボロボロになった地球に弱者を置き去りにして、(強者が)出て行く」という捉え方をしたのに対し、ホリエモンはフロンティアがある事の素晴らしさを語った。私は後者だなぁ。
— けま (@kemamake) January 21, 2015
この話のおもしろいところは、世間的には強者の側に位置してる古舘氏が、自分以上の強者の考えを代弁したことだ。
これは、地球上に未開の地が無いことを言っていると思われるが半分冗談のようなもの。
現実的には、地を刈り尽くした開拓者が、地の次に狙いを定めているのが弱者だと思われる。
ブラックや貧困ビジネスとは違い、政治的に法律的に弱者をターゲットにした施策が増えようとしている。
強者には、弱者が未開の地に見えているのだろう。
歴史を振り返ると、フロンティアスピリッツを持っていたのは弱者で、強者はそのスポンサーであり、弱者は一発逆転を信じ冒険に出ていた。
冒険に船で出かける場合の船長や、隊を組んだ場合の隊長は、冒険が成功すれば強者への仲間入りができただろうが、多くのフロンティアスピリッツの持ち主は搾取されるだけで終わることが多かっただろう。
今、これと全く同じことが露骨に行われようとしている。
わたしを含めて、このブログを見る方は申し訳ないけど弱者の側の立場だろう。
強者と弱者に分類してる限り、弱者は幸せから遠ざかる。
思い出して欲しいのは、強者や弱者という分類(=偏り)は、政治的経済的な枠組みや尺度から生じているということだ。
幸せを求めているのに、幸せを基準にしようとはしてないのだ。
政治的経済的なことは、義務と権利に置き換えられる。
幸せとは本来、人それぞれであり、自分次第のもの。
そんな幸せを、義務と権利の関係の延長線上に求めても、強者だったらともかく、弱者にはピント外れな行動となるだろう。
政治的経済的な価値観とは、合理的と言われ、時には常識だと思われる。
合理的とは英語で言うとreasonable。
現代のreasonableは、金銭的な価値に照らし合わせて損得で考えることを意味するようになっている。
あまり偉そうに人のことは言えそうに無いが、賢く振舞ってるつもりのreasonableを求める気持ちが諸悪の根源かもしれない。
reasonableには、他に『調和』という意味が与えられることもある。
新時代令和は、『美しい調和』という意味だと海外に発信されている。
令和時代が始まって、一人一人が『その調和は美しいのか?』が問われるようになるだろう。