違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『我が人生に悔いなし』の解釈

大竹まことさんのラジオにゲストで加藤諦三さんが出た時の話をYouTubeで聞いた。

 

加藤諦三さんの著書である「人生こんなはずじゃなかった」の嘆きに関する話がテーマ。

 

テレホン人生相談でお馴染みの加藤諦三さんがどんな話をするかが楽しみだった。

 

著書の要約も兼ねた話だったが実際に読んでみたいと思い電子書籍で購入した。

 

まだ、最初の方しか読んでないがおもしろい。

 

大勢の悩める人と向き合って来たからこその知恵や見識がぎっしり詰まっている、しかし難しい表現などないし真新しい事実が出てくるわけではない、しかし新鮮なのだ。

 

 

以下は本の要約などではなくなんとなくわたしが思った話。

 

 

 

本来は同じはずなのがプロフィールと生き様。

 

生き様の要約がプロフィールのはずだが、そこには経歴履歴実績が羅列され、生き様には欠かせない心の葛藤などは表現されない。

 

本来の生き様の評価は自分以外の他人によってなされるべきだが、プロフィールは自己評価みたいなもの、だから詐称がでっち上げられる。

 

転職市場や婚活市場には詐称が少なくないし、企業のプロフィールである決算書は厳密であるべきだが詐称が多く隠れているのは当たり前だ、だから良きビジネスパーソンは決算書のウソを見抜く能力が求められる。

 

本来であれば詐称やウソが吐けない仕組み作りにエネルギーが向かうべきだが少なくとも日本ではそうはならない。

 

利害の対立を超えられないのだ。

 

詐称があるところには利害の対立がある、利害の一致が前提の場であってもだ。

 

 

 

生き様の評価に話を戻すと、本来他人からの評価に依存する生き様だが、その生き様の自己評価の究極が『我が人生に悔いなし』を問うものになる。

 

プロフィールの充実に勤しんだ人が『我が人生に悔いなし』と言い切るイメージはあまり似合わない、死の間際まで不平不満や悔いを感じてそうなのが似合う。

 

本来自分で自分にウソを吐くことは不可能なはずだが、人間は意図も容易く自分にウソを吐く。

 

ウソを吐くことでプロフィールを充実させて他人の目には成功者に見えるようにと腐心してる人のなんと多いことか、加藤諦三さんの話はそういうことを教えてくれる。

 

プロフィールが充実し社会的には成功者と思われる人は、意外と『我が人生に悔いなし』とは縁遠い生き方をするハメに陥るようだ。

 

 

加藤諦三さんの話は当たり前過ぎることを言ってるようで一周先を行っている。