違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

「WELQ問題」をキッカケに医学的なエビデンスというものを考えよう!

WELQが問題になった時、不快感を感じた。

 

感じた理由は、SEO対策の巧みさによって「情報を選ばされてる感」を受けたことだ。

 

検索して「選ぶ」という能動的な行動を取ってるつもりなのに、「選ばされる」という受け身の行動を余儀なくされてることへの不快感だった。

 

 

 

肝心な記事に関しては見てないが、少々トンチンカンなことが書いてあっても別になんとも思わなかっただろう。

 

事実を知りたい人が見るサイトでないことは、サイトの体裁から容易にわかる。

 

 

探してるのが事実ではなく、共感できる記事なら問題は何もない。

 

それは、趣味嗜好の領域になるからだ。

 

 

 

 

WELQに対する非難の多くは、内容が医学的に正しくないという点に集中していた。

 

医学的に正しいとはなんだろう?

 

 

 

人体を知るために解剖が行われた。

 

解剖された人とはどんな人だろう?

 

  • 死亡直後で解剖に同意があった人
  • 身元不明の死体

 などか。

 

 

生きていながら解剖された人もいるだろう

 

  • 重罪を犯した犯罪者
  • 捕虜

 

 

など。

 

 

その膨大な積み重ねで人体に対する知識が増えたのであろう。

 

一方、病気を治療するなかで増えていく知識と経験がある。

 

 

 

医学的な知識が学問レベルになりどんどん進化し今に至ってるが、昔から疑問があった。

 

 

医学は、ごく普通の健常者をどこまでわかってるのだろうか?

 

 

ほんとうの意味で、病人と健常者の違いが理解されてるのだろうか?

 

 

医者の多くは、日常的には病人ばかり見ている。

 

 

医者の多くは、健常者を知っているのだろうか?

 

 

最近では、スポーツ医学なる分野もでき、トップアスリートに関するデータも増えてるだろうが病気治療の分野との情報交換は行われてるのだろうか?

 

 

 

人間を医学的にトータルに把握するということは本当にできているのか?

 

 

 

大多数を占める医者ではない人の中には、医者が実は人間のことをよくわかってないのではないかと思い始める人が出てきてると思う。

 

医者に疑問を持つと、「医学的なエビデンス」の反対の価値が見えてくる。

 

 

ことわざや言い伝えを含めた民間療法だ。

 

 

 

 

 

 

WELQは民間療法情報を発信してたと考えれば、それは医学というより文学となる。

 

「医学・健康」と謳ったのは失敗だった。

 

 

文学は心の栄養にはなるので、巡り巡って病気が治癒することもあるだろう。

 

治ったとすれば、その療法が正しかったというより、心に拠り所を持つことが回復を促進したということだろう。

 

 

 

 

飛行機が飛べるのは「翼が揚力を発生するから」しかし、なぜ揚力が発生するかは解明されてないと言われてる。

 

「飛行機がなぜ飛ぶか」分からないって本当?
間違った説明や風説はなぜ広がるのか

 

コレを読んでも、わかってるんだか、わかってないんだか、わからない。

 

 

 

医学的エビデンスと揚力って「分かりづらいという意味で」似てるかもしれない。

 

そして、都合良く解釈されて使われてる気がする。

 

 

 

 

本当はよくわかってないエビデンスというものに我々は命を預けているのかもしれない。