違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

総合的な判断vs部分的な判断

患者として大きな総合病院や大学病院に行ってる人の多くは街のクリニックや医院から紹介状を出されてというケースが多いだろう。

 

クリニックや医院では対処できないから紹介状が出るという意味ではそれなりの症状を示していたはず。

 

私もある。

 

大きな総合病院に患者として入院したりすると、だいたい一階のエントランス付近にあるその病院にある診療科とそれに携わる医師の名前の一覧があり、こんなにたくさんの分業体制が組まれれてるんだと驚くと同時に、医師一人で全てを診る仕組みがないことも分かるようになる。

 

そういえば養老孟司先生が「人間の身体の全てと関わる医者は解剖医だけ」と言っていたことも思い出される。

 

養老先生の言葉通りだとすると、生きてる人間を一人で総合的に診断できる医者はいないことになる。

 

つまり、医者は果たして人間の身体の専門家だとどこまで言えるのかという疑問が湧く。

 

スペシャリストかゼネラリストかという問いとも共通するだろう。

 

自動車の整備工場にエンジンが不調の車を持ち込んで「ウチはサスペンションは得意だけどエンジンは苦手なんだよね」というところがあったらおそらく商売にはならないはずだが、実績を持った専門店としてサスペンションに特化するというのは成功する可能性はゼロではない。

 

しかし、自動車メーカーの設計や開発では自分の専門領域を狭い範囲に限定しそれ以外は全くタッチしないというスタイルはおそらく珍しくないはず。

 

機械ものが限りなくモジュール化してる現代では一部分の専門家がとても多いはずだが、その理屈はあらゆる分野に広がっていても不思議はない。

 

 

良い部分だけを寄せ集めれば総合しても良いはずだという考えの理屈は成り立つし、プレゼンされるとスッキリ爽やかかもしれない。

 

スペシャリストや専門家の細分化が進むのは、問題や課題や心配事が細分化してるからでもあるだろう。

 

だからいつの間にか一人が総合的に携わるという展開よりも、細分化した分野にそれぞれの専門家がいて、そんな専門家を一括して確保してるという展開に大衆や世間が信頼を寄せるようになったのだという典型が大きな総合病院なのかもしれない。

 

 

総合的な判断をしてるつもりで部分的な判断の寄せ集めをすることが主流になってる現代では、そのやり方で多くのことが解決するのも事実だろうが、部分の寄せ集めではない総合的な判断が遠いものになってることも事実だ。

 

 

字面からすると総合病院をdisってるように感じるかもしれないがそんなことはなく私が行ってる病院にはむしろ大きく感謝しているのだが、私が回復した理由は実は原因不明なのだ。