違う見方

見方を変えると目からウロコが落ちるかもという独断と偏見による雑記、備忘録

裸の王様のような、迷える子羊

最近ネット上で話題になった話を元にした雑談。

 

「自分が苦労していたんだから他人にも同じ苦労させたい症候群」にどう立ち向かうべきなのか

まあ、字面から言わんとしているところは了解していただけると思います。

例えばPTAとか。例えば町内会とか。例えばマンションの自治会とか。

もしかすると企業や学校でもそうなのかも知れませんが、「ある程度長く続いていて、硬直化した組織」では、しばしば下記のような状態が見受けられることがあります。

 

・どう考えても不要かつ無駄な作業が、何故か改善・撤廃されない

 

・改善しようとすると、そこに長くいた人から何故かよく分からない抵抗や圧力がかかり、改善することが出来ない

 

・現在の作業者も全員無駄な苦労だということを認識しているが、嫌々その作業を継続している

 

・本来なら改善を指示するべき上位の人間も、何故か見て見ぬ振りをしている

 

 

 

この話は、学生の部活に関してもよく言われる。

 

間違った(未熟な)仕組みや判断に基いての行動が、改められること無く継続することが日本には多いと感じる、勝手なイメージで外国では少ない気がしてる。

 

根底にあるのが”成仏”に対する間違った考えのような気がしてる。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/成仏

成仏(じょうぶつ)は、仏教用語で、無上の悟りを開くこと、死んでこの世に未練を残さずとなること、または死ぬことを指す。

 

日本語の日常会話や文学作品などでしばしば用いられている「成仏」という表現は、「さとりを開いて仏陀になること」ではなく、死後に極楽あるいは天国といった安楽な世界に生まれ変わることを指し、「成仏」ができない、ということは、死後もその人の霊魂が現世をさまよっていることを指していることがある。

 

 

成仏という概念は建前と実際の間に乖離があるように感じる。

 

建前は亡くなった人の霊魂が安らかであることを願っているが、実際の現実社会では死者からの復讐を恐れる気持ちを和らげることを意図してるように感じる。

 

自分が感じた理不尽さに対する恨み辛みの感情を成仏させるために、新しく加入した人に同じ思いをさせようとして上記記事のようなことが改められないまま続いているように見える。

 

理不尽さを経験して、嫌な思いをした人の中には、これ以上嫌な思いをする人を増やさないために改めようと考えた人はいたのだろうが改まらないということは少数派だったからだろう。

 

間違いを改め損なうということが、間違った伝言ゲームを生み出し、この理不尽は全員が味わうのだから我慢しろ、そうすればやがて理不尽を押し付ける側に回れて成仏できるぞとメッセージが伝わったように見える。

 

間違いを改め損なったのは、自信の無さが原因だろう。

 

自信がないから「No」が言えない、村八分が怖いから「No」が言えない、でも「No」が言えないから成仏できない。

 

間違ったポジショントークを正当化させるために、負のループを繰り返す間違った伝言が繰り返された。

 

 

 

 

【格差社会】『貧乏な家』がどうなっているか知らない人が多くなっている?「貧乏な家の友達なんていなかった」

 

高度経済成長の前の日本は、一億総貧乏と言われた時代があったらしいが、意味するニュアンスは近いかもしれないが、受取るイメージは全然違う。

 

一億総貧乏には、絶望のような悲観や嘆きを感じない(これ自体が間違った理解かも知れないが)、だって皆いっしょだから(赤信号皆で渡れば怖くない)というニュアンスが感じられる。

 

貧乏が普通だったが、格差が拡大すると、絶対性ではなく相対性で全てが位置づけられるようになる。

 

最近の日本は貧困化しているとよく言われるが、これは相対的な位置関係を示し、昔の貧乏とは意味が違う、金はなくてもモノはあるしインフラだって整っている。

 

昔と違い、所属や帰属が社会の中の接点の中心になったので、色んな意味で似てる人(価値観、収入、住んでる場所など)としか付き合いがなくなる。

 

そうなると隣は見えるが、隣の隣はもう見えなくなる。

 

 

話題になったニュースから感じられることは、情報は増えたが視野は広がってないかもしれないし、間違ったことを間違ってるとわかりながら信じているかのような行動を取り続けるという意味で、人間というのはつくづく裸の王様的な迷える子羊だなと思った。