違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ラジオと耳

皆さんの生活に、ラジオは身近な存在でしょうか?

 

今日こんな記事を見た。

 

「ラジオ」止まらぬ高齢化、若者呼び戻せるか

「コンテンツさえ良ければ人は集まってくる」。ラジオ局関係者からは一様にこんな声が聞かれる。J-WAVEの神田竜也・取締役編成局長は、「コンテンツの質は大前提。世の中にこれだけ良いコンテンツがあふれているのに、それだけでは不十分。いかに(ラジオのことを)知ってもらうかが重要」と指摘する。

 

 

私は、中学高校と深夜放送が大好きだったので、ラジオは大好きで身近な存在だと思ってるが、じゃあ聞いてるかと言うと、たまに"ながら"で聞くことがある程度になっている。

 

テレビで著名な司会者たちの多くが、ラジオ出身だったり、お笑いタレントなど"しゃべり"で勝負する人々もラジオに出るということを意識してる人がいる。

 

ラジオが好きな人は、皆感じるだろうが、司会進行役(=DJ,パーソナリティ、アナウンサーなど)と視聴者の距離が近いのだ、それだけでなく視聴者どうしの距離も縮まるのが魅力だ。

 

そう思ってる私でさえ、大学入学以降はラジオは少し遠い存在になった。

 

気の利いた職場(私が思うだけ)では、ラジオをBGMにしてるところもある。

 

 

ラジオは、"ながら"作業に向いているし、"ながら"ではない場合は、極めて個人的な世界にどっぷり浸る傾向が出る。

 

つまり、"ながら"ではない場合、その場で大勢で共有するには向かないが、場が離れてる視聴者同士との間には共感を共有することができるという特徴がある。

 

ことばだけで何が伝わるかを、ラジオとテレビで比較すると、テレビでは、ことばは、ことば通りにしか伝わらない。

 

ニュアンスに相当するものは、ことばを介してではなく、視覚的な表情を介して伝わるが、その力は弱い。

 

一方ラジオは、ニュアンスは口調を通じて伝わるが、その伝わり方は音叉が共鳴するように、直接触れてないのに、触れてるように伝わる。

 

ラジオでは、大事な話は、その大事さがきちんと伝わり、どうでもいい話は、全く伝わらないが、テレビでは、大事な話もどうでもいい話も、同じように伝わる。

 

どちらが良くて、どちらが悪い、という話ではなく、特徴が違うというだけの違いだ。

 

 

 

 

 

 

ラジオは、『声』なんだと改めてわかる。

 

 

 

情報は、『視覚』に訴えるものばかりになっている。

 

知識は飛躍的に増えてるが、なぜか世間には賢くない人が溢れてる気がするのは気のせいだろうか?

 

 

 

 

過剰に視覚に依存することで、衰えてる機能や五感がありそうだ。

 

 

 

私は、時々するのだが、テレビドラマを音声だけで聞くと、意外な面白さが味わえる。

 

最初から、音声だけで企画されるラジオドラマと違い、テレビドラマでは会話が大事だと思われてるシーンでも、セリフが映像を補完するものになっていることに気付く。

 

テレビドラマを音声だけで聞いて面白いのは、セリフよりもバックの自然音やSE(効果音)や挿入歌(音)だったりで、これらの方が臨場感を盛り上げていることに気付ける、そしてセリフの場合だったら、ことばよりも、その『間』が伝えるものが大きいことに気付く。

 

音を感じ取ろうとすると、五感が研ぎ澄まされる。

 

そんな時、自然と目をつぶる。

 

五感が研ぎ澄まされると書いたが、そんな時は視覚だけは必ずしも必要としない。

 

最近、瞑想が流行っているが、これは視覚を遮断することに意味があるのかもしれない。

 

『キャラクター変更』のススメ!?

「現場からは以上です。」という締め括りの言い方がある。

 

テレビで現場から中継するレポーターが話を終了させる場合に用いる言い回しなのだが、応用範囲の広い言葉で、カジュアルな場にも、深刻な場にも使える言い回しで、私もいつか使ってみたいと思いながら今日まで使うことはなかった。

 

“現場からは以上です”と検索すると、

 

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どうやらtwitter上で使う人が多そうだ。

 

 

ところで、この「現場からは以上です」という言い方は、聞いてくれてる人がいるということが前提の言葉だ。

 

ブログを始めたばかりの頃、数万人が見るんだろうなと思う自意識過剰な1%の自分と、残り99%は、見る人なんかいるわけないと思う気持ちの自分がいた。

 

この二つの思いがぶつかると、当然「見る人なんかいるわけない」が勝つので、私は読む人に向かって話しかけるように書くことに、すごく高いハードルを感じていた。

 

だから、誰かに語るというよりは、独り言に近い、相手はもう一人の自分という意識でやってきた。

 

こういう意識の元で約2年間続けてきて、自分でもなんとなくブログ上のキャラクターが出来がってるような気がするが、最近では読んでくれて頂いてる方の存在も感じられるようになってきたので、少し語りかけるような内容も増やしてみたいと思い始めてる。

 

そこで、気になるのがキャラクターが変になってしまうことだ。

 

なんだか、禅問答の匂いがしてくる。

 

キャラクターを変えようとしてるのに、"変"になることを恐れている。

 

世間一般では、キャラクター以外にキャラクターに相当することをどう表現するのだろうか?

 

解釈の幅を広く取ると、"イメージ"や"性格"などが浮かぶ。

 

これらを、Google Trendsで検索可能な2004年以降で比較すると、

 

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この3つが交わってるのが2010年の末から2011年の頭にかけてだが、いろいろ調べたがこの時期に何かがあったというわけではなく、"イメージ"が使われていた表現が"性格"や"キャラクター"にシフトしている様子が伺える。

 

では、これらを変えようと思った場合、どういう表現が用いられるか?

 

イメージは、チェンジするものとして"イメージチェンジ"。

 

性格は"変える"と表現しそうだが、意味合いが違ったものになりそうな気もする。

 

"イメージ"や"性格"が内面も反映してる気がするのに対し"キャラクター"は、表面的な外面(そとづら)の印象があるので、"変更"が当てはまりそう。

 

"イメージチェンジ"、"性格を変える"、"キャラクター変更"を比較すると、

 

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ここでも、"イメージ"が弱体化していると感じられる。

 

キャラクターを変更するという表現には、どこかお手軽な匂いが漂う。

 

そう思いながら頭に浮かんだのが、"別アカウント"という単語だ。

 

世間一般では、別アカウントは、実名ではできない暴言を吐いたりするための裏アカウントとして理解されているが、もしかしたら、キャラクターの使い分けとして使われているかもしれない。

 

そう思い、"別アカウント"も加えて比較すると、

 

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アカウントを次々と変える人とは、最近ではアカウントを凍結される人を意味することが多いので、そこに反社会性を感じたりするが、それとは別に、キャラクターを模索する大勢の人々の存在も感じられる。

 

アカウントを凍結される人々は、いわゆるノイジーマイノリティで、キャラクターを模索する人々はサイレントマジョリティーと言えそうだ。

 

そう言えばと、思い出したCMがある。

 

1粒で2度美味しい

 

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別アカウントを用いたり、キャラクターを変更することは、美味しさを何度も味わいたいという気持ちの表れでもあるかもしれないが、それ以上に、もっと美味しいものがあるかもしれないという思いなのかもしれない。

 

キャラクターの変更には、人生のやり直しに似た魅力がありそうだ。

 

これって、日本版「MeToo」?

2年前くらいから盛んに取り沙汰され始めた日本企業の劣化ぶり。

 

その代表格は、2016年当時は三菱重工に代表される三菱グループだった。

 

その当時のことを伝える記事としてこういうものがある。

 

日本企業は劣化したのではなく、もともといい加減だった 2016/4/6

 

 

神戸製鋼のデータ偽装の発覚は2017年で、その後の調査で全社を上げて数十年前からデータ改ざんを行っていたことが明らかになった。

 

また、2013年には食材偽装問題が話題になり、これとは別に食品に記載される情報を偽るという食品偽装問題は、21世気に入って頻繁に話題になるようになっている。

 

これらは、報道の初期段階では、ありえないことが起きたという捉えられ方をするが、経緯が徐々に明らかになると、起きるべくして起きていると思えるものと、そもそも発覚したのは最近だが、ずっと以前からやっていたというものに分かれる。

 

だとするならば、見方を変える必要がある。

 

これまで隠し通せていたことが、隠せなくなっていると捉えた方が良いかもしれない。

 

つまり、今という時代は、見て見ぬふりが成り立つ境目を越え始めているのだ。

 

見て見ぬふりが成り立つためには、二つの可能性が考えられる。

 

・それによって不当に利益を得ている

 

・人間関係を壊したくない(=人間関係から利益を得ている)

 

二つと書いたが、結局は利益に還元されるのかもしれない。

 

 

これらは、発生の経緯は、個別の企業の理由に基づいているが、これらを総合していわゆるビッグデータ的に捉えるならば、根幹は同じなのかもしれない。

 

そういうことを、おそらく多くの日本人が感じてるだろう。

 

最初に不満を感じるのは、利益を得られない側の人たちだろうが、現在は、利益を得てる側の共感も増えているはずだ。

 

人間関係の質が変化してるからだ。

 

企業活動やスポーツの世界では勝つことが求められる。

 

そして、技術や文化ですら勝つことを求められ始めている。

 

これまでは、勝負の世界には、「勝てば官軍負ければ賊軍」という大前提が生きていたが、最近は勝負以前に、『正々堂々(=公明正大)』が求められるようになっている気がする。

 

今年5月に発生した日本大学フェニックス反則タックル問題は、例外的なことが起きたとその時点では捉える人が多かったかもしれない。

 

しかし、問題はそう単純ではなさそうだった。

 

 

 

もう忘れ始めてるかもしれないが、2018年の始まりは相撲界のブラックから始まっている。

 

そして、この2,3日でボクシング界でもアメフトと同じようなことが起きていたことが発覚した。

 

武井壮さんは、このボクシング界でのことを受けてだと思われるが、特にこの件とは明示せずにこんなコメントを発している。

 

 

 

ここに取り上げたものはどれも、それぞれの『界』で起きた話で、全ての登場人物がなんらかの役割を果たしているのだが、現場の問題でありながら、実は指導者が起こした問題だ。

 

これまでは、『何らかの利益』と引き換えに発覚を抑えることができていたが、その『何らかの利益』の効力が無くなっているのかもしれない。

 

『何らかの利益』は、服従や恐怖政治の代償として提供されていて、そのバランスが成立するラインがおそらくあるのだろう。

 

しかし、その成立していたラインが変化し始めたのか、あるいは『何らかの利益』自体が提供されなくなっているのかもしれない。

 

わかりやすいのは、「金の切れ目が縁の切れ目」だ。

 

そう思っているところに、降って湧いたのがこの話題。

 

東京医大“女子減点”事件は氷山の一角、就職試験でも女性差別は横行! なのに高須克弥や“女尊男卑”厨は…

試験に合格しても女性であるというだけで不合格にし、その分、男性の合格者比率を上げる──。

 

あちこちから膿が出ているような日本に見えるし、日本というシン・ゴジラが断末魔の悲鳴を上げてるようにも見える。

 

ビジネス界、スポーツ界、さあ次はどんな『界』から膿が出るのだろうか?

 

各界から膿が出るこの姿は、日本版#MeToo運動と言えるかもしれない。

 

 

もう我慢しないぞ!

ビジネス書はどこに向かう

先日、編集者の視点について書いたが、その際に柿内芳文さんという「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」という本の編集者のことばを引用した。

 

今日は、その「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」の著者である公認会計士の山田真哉さんのことばを参考にしてみたい。

 

 

 

 

今日書くことのほとんどは、ビジネス書、なぜ売れない?「さおだけ屋」著者と振り返る平成30年史に書いてあることで、私自身の備忘録として書いている。

 

なお、グラフ等はこのサイトから引用している。

 

 

リアルタイムで過ごした時間の流れの中で起きている変化には案外気付かないものだ。

 

だから、上手に総括してくれる誰かの意見は非常に役に立つ。

 

全面的に同意できなくても、その頃何が起きていたのかを感じることができる。

 

他人の考えてることは、その懐事情と同じで、本人以外には意外に知られてないし、どうかすると本人自身も理解してないことがある。

 

 

書籍全体としては、1997年がピークだったが、その中でビジネス書は、2000年台も売れ続け、2010年台に入り息切れを見せ始めた。

 

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なぜ、出版不況と言われる中で、ビジネス書は売れたのか?

 

本に読者としてしか接することがないと、深く考えることなく、読者がビジネス書を買うからだ、としか思ってなかった。

 

強いて言うなら、小説よりもビジネス書の方がリアリティを感じさせてくれるという意識を私は持っていた。

 

また、小説は娯楽であり、エンタメであり、リフレッシュにはなっても、仕事の役に立つとは思えなかったからで、それに比べてビジネス書はどこかに自分の役に立つヒントがあるのではないかという目で見ていた。

 

しかし、出版界がビジネス書に活路を見出した背景には、文芸や専門書に比べて作家に対しても、書店に対しても、楽でコストがかからないジャンルだったかららしい。

 

人々の意識がビジネスに向かうキッカケとして、1997年の山一證券や北海道拓殖銀行の破綻があり、"寄らば大樹の陰"に疑問を持つ人が増えたが、これは潜在的な動きだっただろう。

 

そして、2000年頃のITバブルから2003年頃にかけての株の上昇がキッカケで、"マネー本"が売れはじめ、自己投資や外資系企業がキーワードになり始めた。

 

当時は、ピンとこなかったが今にして思うと、この頃から世の中全体が儲けを個人に還元する、つまり結果を出す人と結果を出せない人の間に格差が付くようにシフトし始めた。

 

これは、ビジネス書が出版界でもてはやされたのと理由は同じで、始まりはコスト削減なのだ。

 

この辺りから、社会のキーワードは、"費用対効果"や"償却(元を取るまで何年かかるか)"になりだし、これが後に"生産性"にシフトしたのだ。

 

一見、合理的なこの考え方が、その後急拡大するブラック勢力につながるのは明らかだが、これはエコシステム的に捉えれば"淘汰"そのものだと言えそうで、現在はまだその過渡期だと考えられる。

 

大組織の理屈から、少組織の理屈になり、現在は個人ベースの評価システムに移行したと言えそうだ。

 

2008年のリーマン・ショックと2011年の東日本大震災は、温故知新な古典回帰を促し、2009年に出版された「もしドラ」は21世紀で最大のヒットで電子書籍を含め280万部以上売れた。

  

 

2位もドラッカーの本だ。

 

 

スマホの普及などがキッカケで、ビジネス書は2010年台に入って下落傾向にあるが、スマホを含めたネットに負ける理由は何かと言うと、情報の中身が同じだったら、お手軽な方が重宝されるのは当然で、紙の本がネットに対抗しようとすれば中身の見()せ方しかないのだ。

 

紙の本がネットに勝てる時は、ネットで表現し伝える内容は全く同じでも、伝わるイメージが薄っぺらくなる。

 

宗教を持たない日本人は、道標を本に求める傾向があるように感じる。

 

自己啓発書というジャンルは、宗教に代わる役割を担っているように見えるが、今ではビジネス書と自己啓発書の境界が曖昧になっている。

 

どちらも、予測不能な未来に意識が向かい出してるからで、最近良く目にするAIやVRあるいはエネルギー問題や地球温暖化など、答えが過去には無い課題が山積みになって立ち塞がっている。

 

「Amazon ランキング大賞 」2018 上半期で振り返る、最も売れたビジネス書Top10

を見ると、最近のビジネス書は、トレンドワードをキーワードにした自己啓発書になっているように感じる。

 

売れる本にも格差が生じつつあるように見える。

 

一度読んだら、BOOKOFFに行くような売れるという現象だけを作るベストセラー扱いの本と、買った人がいつまでも本棚に入れておくような本でピークを過ぎても売れ続けるロングセラーという格差。

 

これから起きることは、未知のことが多いとすれば、新しいことを知識として吸収しなければいけないが、何をどうやっても所詮人間のやることだと考えれば、時代を超えて支持されるものの中にヒントがあるかもしれない。

 

ベストセラーを選ぶか、ロングセラーを選ぶか、ここが人生の分かれ道になるかもしれない。

 

馴染んだ習慣の恐ろしさ!

世の中が変化してるということをどこに感じるだろうか?

 

変化は日々起きているので、気付いたり気付かなかったりするが、そんな中のひとつで、私が気付いていた変化として喫煙率の低下がある。

 

私は、タバコを吸うことなく人生を歩んでいるが、大学生になり社会人になった頃、周りは喫煙者だらけになっていた。

 

先入観だが、タバコを吸うという行為は若い頃に始め、習慣化するものであって、若い頃に吸わなかった人がその後に吸い出すことは極めて稀だと思う。

 

上が男性で、下が女性、Wikipediaの喫煙率から引用。

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タバコを吸い始めた人々が止めるキッカケは何なのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

自分自身の健康のためが多いのかと思いきや、そうでもなさそうなことが伺える。

 

人間は、合理性を求めてるようで、感情が占める割合が多いということを示してるような気がする。

 

そもそも、何がキッカケで吸い始めたのだろうか?

 

未成年でタバコを吸い始めた友人たちに「タバコって美味しいのか?」と聞いて「美味しい」と答えた者は一人もいなかった。

 

では、なぜ始めるのだろうか?

 

大学の悪い先輩に誘われて吸い始めた。仲良くなるために(20代男性)

 

・THE MICHELLE GUN ELEPHANTのチバユウスケさんに憧れて(20代男性)

 

・ルパン3世の次元がかっこよすぎて興味をもった(20代男性)

 

では、女性はというと…

・彼氏にフられた腹いせに…(20代女性)

 

・恋人や周りの人が吸っていたから(20代女性)

 

その昔、喫煙がダイエットになると言っていた知人女性がいたことも思い出した。

 

喫煙率の低下は、アメリカでもだ。

 

 

 

最近、"酒は百薬の長"というのは間違いで、酒も"百害あって一利なし"だというエビデンスが出てきてるらしい。

 

エビデンス以前に、人体にとってアルコールは"毒"そのものなのだ。

 

しかし、タバコの煙のように周りに害を振り撒くわけではないので、飲酒は酔っ払わなければ世間に受け入れられると思われがちだが、統計上は喫煙率とリンクする動きを見せていた。

 

喫煙率および飲酒率の推移  内閣府男女共同参画局

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飲酒離れも静かに起きているのだ。

 

酒やタバコだけでなく、馴染んだ習慣にはリラックスに似た効果があると言われる。

 

習慣になることは、好きなことだと思われることが多いが、むしろ嫌なことから逃げる方が多いかもしれない。

 

だから、悪循環を生み出す事が多い。

 

緊張、ストレス、欲、打算、ひとりよがり、何らかのモチベーションに駆られて行動する時に生まれる負の心理がある。

 

良かれと思い身につけた習慣が生み出す負の心理が原因で、もう一人の自分自身がクレームを発するようになる。

 

1:29:300の法則(ハインリッヒの法則)

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1:29:300の法則は、供給側の視点で捉えた数字です。

 

従業員が失敗だと捉えていない事柄の中にも、顧客の側から見れば失敗と判断される事柄も存在するはずです。

 

 

習慣になって、馴染んでしまうのは、処世術として成り立つ背景があったのだろうが、背景の事情が変わると、習慣も成り立たなくなり、馴染んでる場合ではなくなる、そうなるともう一人の自分がクレームを発するようになる。

 

 

考え方や、行動などに関して、なんらかの習慣があることを自覚してる人は、自分の価値観を自問自答すると新しい発見があるかもしれない。

 

メッセージが不在のコミュニケーション!

個人ブログは、自分自身をフィルターとして、そこを透過したものがコンテンツとなるのに対し、出版される本は、著者が書いてるがそれは編集者というフィルターをくぐり抜けたものになる。(と思っている)

 

そんな編集者の話を聞いた方の話が下記で、その編集者とは柿内芳文さんという方でこのような本の編集者だ。

 

『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』

ウェブはバカと暇人のもの

『99.9%は仮説』

『若者はなぜ3年で辞めるのか?』

『嫌われる勇気』

『漫画君たちはどう生きるか

 

 

天才編集者のお話は本当に素晴らしかった

では、当日の柿内氏のお話から、私がメモすることができた内容を以下に列記してみる。

 

<出版社/編集者の役割>

出版社とは、たった一人の頭にやどる知識、思想を公共財にする存在。 文化的遺伝子の爆発をお手伝いする役割。 爆発した後は、出版社の手には負えない。 『書き手の狂気』『狂っている人』を扱いたい。知名度はあまり関係ない。基本的 に無名の人を相手にしたい。 狂気を持っている人の強い言葉をそのまま出せれば売れる。 平均的な、バランスを取っている表現は、狂気が足りず面白くない

 

 

<編集者の心得>

やることについては、常に必ず言葉にする。そうするとぶれないし、訓練にな る。 編集者は、平均的になりがち。 プロの編集者を定義することが必要だが、難しい。 いかに突き抜けたものを持っているかがプロの条件。 社会性はゼロでも、何かが突き抜けているとプロとしてやっていける可能性がある。

 

普段から何でも定義することを心掛けていて、その点では自分 はプロだと思う。

 

 

下線、太字は私が入れたが、この部分に書いてあることは、いわゆる炎上に通じる世界観なのかもしれない。

  

リアルな本の世界では、編集者の目に留まる所からスタートするし、映画やドラマの世界では、何度も出版社に作品を送り続けても編集者の目に留まらなくて苦悩する作家の姿が描かれたストーリーを見ることがあるが、たくさんの作品を一度に見続けることが日常になってる人(=編集者)にとって、バランスの良さ(=平均的)はマイナスとなるのかもしれない。

 

バランスの良さが、面白みの無さにつながるというと、思い出すことばがある。

 

"非の打ち所がないという悪徳"ということばがあったなと思って検索すると、ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」の一説だったと出てきた。

 

上記の引用記事には、狂気についての補足説明もあった。

 

『世の中に伝わっていないが良いものをどう伝えるかが重要』というところだ。有名人ではなくても、『狂気』と言っていいくらいの強いメッセージ性を持つ人間の頭に宿る、知識、思想を公共財にする、すなわち文化的遺伝子の爆発をお手伝いする役割という定義は本当に素晴らしい。

 

ことばが迫ってこなければメッセージにはならないが、それを狂気と表現するということは、誤解されることを恐れない気持ちが(編集者に)要求される。

 

だからこそ編集者はたくさんいても、優秀な編集者となると少数になるだろう。

 

 

では、凡庸な編集者の目に留まる人々とは、どんな人だろうか?

 

 

一方、売れっ子の作家以外は、編集者がどんな人であれ、編集者だけが頼りとなるが、話の焦点はそこに込められたメッセージではなく、お金の話だ。

 

 

 

狂気の無いメッセージは、ビジネスライクになりがちだから、売れさえすれば良く、売れ方は問わない。

 

 

『狂気』と言っていいくらいの強いメッセージ性が伝えようとすることは、読んだ後に、その次の行動を取らせることで、つまり啓蒙が目的。

 

それに対し売れることだけを目指してる場合は、読んでおもしろかったと思わせるだけで十分で、それは啓蒙にはならず、せいぜい次回作への期待を持たせれられれば成功というマーケティング的な視点に留まる。

 

 

 

SNSの発達で、目利き力を持った人々が発するメッセージにリーチできるためのハードルは大きく下がったはずなのに、そんなメッセージを受け取ることのハードルは上がってしまった時代になっている。

 

そういうメッセージは、上手く伝わらずに埋もれてしまうのだ。

 

また、分野を問わず、目利き力が衰退している。

 

テレビ番組で、売れ筋の有名タレントを多数起用したり、ヒットの要素を盛り込んでも必ずしもヒットするわけではないところを見ると、その道のプロというだけでは一般大衆というマスを捉えることが難しくなっていると言えそうだ。

 

しかし、ここで考えなければいけないことは、目利き力は発信する側だけに必要なのではなく、受け取る側にも必要なのだ。

 

発信する側のメッセージが埋もれて届かないのは、受け取る側の問題でもあるのだ。

 

西日本豪雨検証
伝わらぬ切迫感 誤解生んだ緊急メール 毎日新聞2018年7月31日

気象庁は前代未聞の規模で「最後通告」を発していた。その切迫感が自治体や住民には十分に伝わらず、「平成最悪」の広域豪雨災害となった。

 

 

 

気象関連で頻繁に耳にする"50年に一度の"と形容される異常ぶりは、「またか」と思わせ、緊迫感を感じさせない表現になっている。

 

「またか」と思う気持ちが緊迫感を弱める場合もあるだろうが、思い出したことがある。

 

本来危険なことやピンチを意味していた"やばい"が、プラスのニュアンスを持ち出したことと、メッセージが伝わらないという現象に共通点があるような気がする。

 

"やばい"の意味が変わりだしたのはいつ頃なのだろうか?

 

やばいとは「危ない」「悪事がみつかりそう」「身の危険が迫っている」など不都合な状況を意味する形容詞や感嘆詞として、江戸時代から盗人や的屋の間で使われた言葉である。その後、やばいは戦後のヤミ市などで一般にも広がり、同様の意味で使われる。1980年代に入ると若者の間で「怪しい」「格好悪い」といった意味でも使われるようになるが、この段階ではまだ否定的な意味でしか使用されていない。これが1990年代に入ると「凄い」「のめり込みそうなくらい魅力的」といった肯定的な意味でも使われるようになる。

http://zokugo-dict.com/36ya/yabai.htm

 

 

 

 

"やばい"にプラスのニュアンスが定着し始めたのが21世紀直前という話も検索すると出てくる。

 

ちなみに、私は"やばい"を肯定的なニュアンスで使うことは未だにできない。

 

「なんかやばそうだよ!」と言った場合、結構な確率で伝えたいことが間違って伝わりそうだ。

 

 

メッセージは、言いっぱなしでは伝わらないし、聞きっぱなしでは受け取ることができない。

 

こうして、メッセージが不在のコミュニケーションが増えている。

 

 

攻撃性は『諦め』が生み出す!

自由に発言でき、しかも発言できる場もあり、ありがたいことにと言うべきか実名ではなく匿名での発信ができるようになった結果、攻撃性のある人が増えたような気がするし、自分自身の中の攻撃性も増したような気がする。

 

 

私が感じてるくらいだから、多くの人が同様のことを感じているはずだ。

 

そんな、今という時代に生きてる人は、一昔前(必ずしも10年前という意味ではない)から変化してるはずだ、この変化は成長や老化とは別の種類になるはずだ。

 

先ずは、攻撃性が増したことを感じさせてくれるツイートを探した。

 

 

攻撃的になる時は、ほぼ相手に対して否定的なスタンスを取るだろう。

 

そんな事例をtwitterから拾ってみた。

 

 

 

 

攻撃的な気持ちがあっても、言葉遣いを穏やかに展開できることはリテラシーを身に着けている証拠と言えるだろう。

 

 

 

 

twitterで"肯定的"で検索すると"否定的"との対比が浮かび上がるかなと思ったが、あまり引用したくなるようなものがなかったが、一つだけ気づきを与えてくれそうなものがあった。

 

 

否定する時というのは、気が付いたらことばを駆使して論じる傾向にある。

 

論破するなんていうのはその典型で、質が悪いことに、論破するのは結構気持ちが良かったりする。

 

それに対して『肯定』は、「明確に、短く、視覚的に」なされなければ伝わらないという意味では、『否定』よりもハードルが明らかに高い。

 

Google Trendsで検索可能な2004年以降で見ると、

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ざっくりと、"否定=肯定×2"くらいの差がある。

 

否定が多いということは、悲観的なのだろうか?

 

Google Trendsで。"悲観的"と"楽観的"を比較すると、

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両者は拮抗していて、強いて言うなら若干"楽観的"が上回っている程度だ。

 

人間を悩ませる問題は、人間関係であれば他人との関係よりも身内の関係の方が深刻になる、つまり外側よりも内側の方が、こじれると深刻になる。

 

体の悩みも、生命の危機に関わる問題は、多くは体の外側よりも内側で起こる。

 

Google Trendsで、"内側"と"外側"で比較すると、

 

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両者とも、関連キーワードは体の部位の痛みを巡って検索されている。

 

 

単純なキーワードだけの比較だが、日本人とは"内側"の問題に"否定的"に悩むが"楽観的"に振る舞うというふうに見える。

 

これを、一言で言い表すと"諦める"と思えてしまう。

 

"諦める"を"楽観的""悲観的"と比較すると、

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この3つのワードは、大きな違いがないまま推移していたが、ある時期を境目に"諦める"が急上昇し始めた。

 

"諦める"の関連キーワードを見ると、恋愛や子供(妊娠)や人生を匂わせるものが多い。

 

この境目になっているのが、2011年3月で、東日本大震災の時期だ。

 

"諦める"の関連キーワードには東日本大震災と直接結びつくものは見当たらないので、本当は無関係かもしれない。

 

しかし、東日本大震災が関係して"諦める"が増えたとするならば、"諦める"には"達観"に通じる思いも潜んでいそうだ。

 

"達観"を加えて比較すると、

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おもしろいことに気付いた、

 

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"諦める"は、全国的に反応があるのだが、"楽観的"や"悲観的"は都市部での反応であり、"達観"は被災経験を感じる。

 

自分は悪くないのに、何かを背負わせられることがあるのだ。

 

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キーワードで、日本人のメンタリティを探っていると、「諦めてる人が、攻撃的に振る舞う」と見えてしまい、残念な結果になってしまった。

 

せめてもの注意点としては、賢い処世術として、攻撃的な人には近づかず、攻撃的な人とは議論なんてしてはいけないし、自分自身の攻撃性が増していることに気付いた場合は早めに対処が必要だろう。