違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『最初に始めた』vs『普及させた』!

今年もまたあの季節がやって来た、昔は無かったのにいつの間にやら伝統行事になってしまった『恵方巻き』。

 

お付き合いで注文しました。

 

まあ、ちょっと値段が高いけど、中身はふつうの海苔巻きとしか思えないと言うのが私の印象。

 

 

恵方巻きが終わると次はバレンタインデーだが、今はすっかり定番になったこのイベントも由来を遡ると結構適当だったりする。

 

 

バレンタインのお返しのホワイトデーは、諸説あるようだが1970年代にお菓子業界が仕掛けたイベントらしい。

 

 

どれも一番最初を示す「由来」は曖昧だが、それよりもそのイベントを普及させるために尽力した存在の方が果たした役割は大きいと思える。

 

 

『一番最初』が大事だという考えが、知的所有権の考え方だが、一般人にとっては、『誰が広めたか、誰の影響で広まったか』の方がはるかに印象的だ。

 

 

初めてのものに対しては特許の取得など付加価値が付くことが多いが、普及への尽力は別途の付加価値が付けられることはないので、実績以上の評価には繋がらないことが多い。

 

チョロっと検索するだけで出てくるそんな事例を拾ってみた。

 

 

 

 

 

日本人が知らない日本人に関する良い話なので少し紹介。

 

満屋裕明・熊本大教授 途上国にエイズ薬普及、特別賞:青年海外協力隊など3団体

満屋さんはさらにHIVを追いつめるため、HIVが増えようとする時に、たんぱく質を分解する酵素の働きを止める薬(プロテアーゼ阻害剤)を探した。2006年、米国の科学者との共同研究で完成させた「ダルナビル」は、途上国が特許料を払わずに使える医薬品として世界で初めて国連の機関に登録された。「思いが通じた」と喜ぶ。

 

最初の人が特許取ったりする気持ちは分からないでもないが、特許を取ったり権利にこだわりすぎると普及が妨げられやすくなる。

 

日本のガラパゴスもこの辺が関係してそうな気がする。

 

取らぬ狸の皮算用!

 

 

独り占めを狙うなら、普及の促進を狙うべきなのだ。

 

 

恵方巻きを見ていて思いついたことを書いたが、恵方巻きはもともとはただの海苔巻きだとすると、普及させたと言うよりも、呼び名を変えて縁起物扱いさせて付加価値を装うと言う意味では詐欺の血筋を感じてしまうのは、私だけではないだろう。

 

日本人の考えることにガラパゴスが多い理由がわかったような気がしてきた。

『転換』するということは『替える』ことであり『替わる』こと!

現代では巨大企業と言えばGAFAやM(マイクロソフト)で、いずれもコンピューターやテクノロジーで独占的な地位を築いているが、その前の時代にはテクノロジー分野にはIBMという巨人がいた。

 

 

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このグラフを見ると、90年代に入ってIBMが急落したことが分かるがIBMは今でも健在で、ただ一般人の目に触れにくいところに業態を転換(シフト)させていたのだ。。

 

 

一般人の目に触れていたのはハードウェアで、目に触れなくなってからはソフトウェアに軸足を移していたのだ。

 

後から振り返ると分かるそんなIBMの転換の流れを見てみたい。

 

 

 

 

 

理系企業を立て直したのは文系経営者だったが、そこで実践されていたことは、

 

 

ガースナーが采配を振るうまでのIBMはと言うと、

 

 

 

GAFAの台頭著しい頃、M(マイクロソフト)は凋落著しかったが現在は回復しているが、一般人の目に触れるマイクロソフトに変化があったようには見えない。

 

 

技術がハードウェアに注がれると、エンドユーザーである一般人の目に触れる機会が増えるので、変化に気付きやすくなるが、活躍の舞台が裏方になると変化は見えなくなる。

 

現在のところ、目に見えない活躍の舞台としてクラウドがキーワードになってるが、わたしのような一般人ですらそのことを知ったと言うことは、もはやクラウドは新規に参入を考えるには遅すぎる分野になったと言えるはずだ。

 

 

変化の兆しを業績で判断するのは外野の常だ。

 

 

しかし、活躍の舞台が表にある場合は、変化を起こすのも、変化に気付くのも一般人の方だ。

 

 

GAFAが人目に触れずに変化し始める時、その変化が一般人には関係ないところで起きる時、次の時代が幕を開けるだろう。

 

 

常に好奇心と批判の目に晒される分野ですら、ここ一番の変化は、対して注目もされずに起きると言うことが歴史からは伺える。

 

注目されないのは、世間の目には落ちぶれてると見えるからだろう。

 

超大企業ですら生き残りを賭けると『転換』していく「ひっそりと」。

 

同じ理屈は、全てに当てはまるだろう。

 

中小企業はもちろん個人事業主だって、もちろん単なる個人でも。

 

個人が転換を図りたいと考える場合、最大のネックは人間関係だ。

 

行き詰まった時に、自分自身の考え方や行動を変化させようと考える人は多いかもしれないが、それらに影響を与えているのは自分自身の内側よりも外側にあるノイズの方がはるかに大きい。

 

上記であげた超大企業が転換する際には一つのお約束が機能している。

 

俗にリストラと言われる解雇が大量に行われる、そして必要な人材を一定数確保する、

 

転換を図る時、『人を替える』がお約束なのだ。

 

これは、一般的には知識や技術など必要なものを求めてのことだと解釈されてるが、それ以上に「替えたい」なにかがあったのかもしれないし、さらに言うと結果として「替わったなにか」のおかげで転換が可能になったのかもしれない。

 

翻って、個人が現状を打破しようと考えるならば、『替える』が重要だ。

 

外の人間関係を「友達」と呼ぶことが多いが、友達と呼んでしまうと、大事にしなければいけないと呪縛される。

 

友達以上に厄介なのが身内だったりすることも多いが、必ずしも露骨に敵対するわけではない。

 

 

 

替えられるものは替え、替えられないものとは距離を置く、大事なことは簡単そうで難しいが、できる人には簡単なこと。

 

できる人には簡単なことが、できない人にはとても難しいことだったりする。

 

こうして、できる人とできない人の差はどんどん大きくなる。

 

昨日の友は今日の敵、昨日の敵は今日の友!

対立関係は、価値観や感性がものすごく距離的に離れているから起きるような気になるが、実際の対立はすごく身近なところで起きている。

 

そして対立しながらも共存できてる場合、そこには自ずと「GIVE&TAKE」の関係が成り立っていることに気付くこともある、しかしその関係は意外と見え辛い。

 

 

世の中には、嫌われているのに無くならないことがあるが、それは目に見えない「お互い様」が成立しているからかもしれない。

 

 

そのように考えると、両極端だと思われてる「被害者と加害者」の関係は、本当は表裏一体のようなものかもしれないとも思えてくる。

 

 

 

フェイクニュースは、悪い事とされ叩かれるが一向に減らないどころか、その作成にAIが絡むことによってますます巧妙化するとすら言われている。

 

フェイクニュースの反対語は何になるだろうか?

 

フェイクニュースの反対語は「真実」となるのが一般の解釈だろうが、フェイクの反対の意味にピュアやネイキッドがあげられることから、ただの真実ではなく、そこに純粋さやむき出し感があるような真実と考えられる。

 

「一般的な真実」とは、「ピュアでネイキッドな真実」に対して、社会の許容範囲に収まる程度の味付けや加工がされたものと言えるかもしれない。

 

そして、許容範囲を超えて加工が施されたものがフェイクに該当するのかもしれない。

 

だとすると、真実もフェイクもグラデーション上の色の濃淡に近いのかもしれない。

 

そう考えると、当事者には全く違う、嘘としか言えないことが、無関係な第三者には、色が濃いか薄いかの違いにしか理解されないということが起きていることの説明がつくような気がしてくる。

 

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そのようなフェイクに対して、わたしが興味があるのは内容の是非よりもその動機の由来だ。

 

フェイクが産まれる動機として考えられるのは、

 

  1. 悪意に満ち溢れたもの
  2. 立場から出るポジショントーク
  3. 理解が間違っている・誤解

 

などが考えられるが、この図を作りながら少し迷ったのが、「ピュアでネイキッドな真実」のサイズをもっと小さな「点」に近く表現しようかとも思ったが、真実と言われてることってわりと曖昧な中途半端なサイズかもしれないとも思えてきたのが次のような理由からだ。

 

 

光の当て方を変えると、違った形に見えると言うことは図形を相手にしてる場合は説明しやすいが、人間の行動を説明する時にはさらに複雑さを増す。

 

下図のように、人の動きを立体的に補足するだけでも複数の無限に近い視点を設定できる。

 

 

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https://astamuse.com/ja/published/JP/No/2018106496

 

 

これに、関係する当事者の感情や個人的に抱えてる事情などさまざまな影響因子があり、それらを考慮に入れると、真実とはかなり指し示す範囲が広い曖昧なものにならざるを得なくなるので、図のように大きなサイズの方が相応しいと思い直した。

 

「真実」を例に挙げたが、「」内のことばは、大事なことや重要なことだと思われてる多くのことに当てはまるかもしれない。

 

 

この曖昧さの最たるものが、

 

昨日の敵は今日の友(=昨日の友は今日の敵)

 

こう言うことは世間にはたくさんある。

 

 

 

 

リンク先の記事には、

 

安村がアキラに「あんな下品な芸は見たことがない」と宣戦布告して一触即発状態の2人だったが、今回のコラボで意気投合した様子。アキラは「昨日の敵は今日の友、そんな感じです! コラボできてむちゃくちゃうれしかった」、安村は「初めてお盆芸をやったんですけど、実際やってみると難しくて、改めてアキラさんはすごい芸をやってるんだなって思いました」とコメントした。

 

わたしは昔から乱視が強いのだが、そのことを日常で意識することはほとんど無かったが、最近は意識せざるを得ないことが増えている。

 

有り体に言うと、自分の目に見えたものを一回咀嚼する必要が増えているので、自分の目を無条件に信用できないのだ。

 

自分にとって、自分だけは信用できる存在でありたいが、それすら当たり前のことではないと感じられると、自分自身の中にすら「昨日の友は今日の敵」が潜んでいることを意識せざるを得なくなる。

 

しかし、今日改めて考えていると、私たちが敵や味方だと色分けしてるものの多くは、いつでも容易に敵だと思ってるものが味方になったり、その逆があったりするのが当たり前だと思えてくる。

 

なんだかうまくいかないなという場合は、一度立ち止まって、先入観で持っている敵と味方のイメージを入れ替えてみるのもおもしろい発見につながるかもしれない。

【克服法】視線耐性って知ってる?

『視線耐性』ということばがあるらしい。

 

AERAの最新号の巻頭特集「見るのも見られるのもイヤ」で用いられてるのを見て、初めて知ったことばだ。

 

 

最近増えたいつもマスクをしている人達にも共通する心理があるようだ。

 

AERAの記事には、取材に応じた女性の「もはや自分にとってマスクは『顔パンツ』です。つけていない姿を世間にさらすのは恥ずかしい」という名言も載っている。

 

世間にデジタルが溢れ、スマホをはじめとしてコミュニケーションの基本が対面に拠らないものがプライベートでもビジネスでも増えたことが背景にあると解説されている。

 

視線耐性が低いと、友人同士や恋人同士でも目を合わせることを避けようとするらしい、だから視線耐性が低い人同士は店を利用するときは横に並べるカウンタータイプを好むらしい。

 

見られることがイヤな人が、見ることをイヤがるのは自然な行動に感じられる。

 

見られることも見ることもイヤだという場合の見るものとは、『相手の目=相手の視線』だ。

 

コミュニケーションの基本は「相手の目を見て話すこと」と言われるが、だとするとその基本がこの数年で急速に崩れているかもしれない。

 

この基本を身に付けて普通に実践してる人からすると、視線耐性が低い人は、自己肯定感が低い、自分に自信が無い人と映る。

 

しかし、視線耐性が低い人が多い場だと、基本を身に付けた人は人を無遠慮にジロジロ見る気持ち悪い人に映るかもしれない。

 

 

わたしは、基本を身に付けた側の人間だが、そんなわたしでも少し種類は違うが似たような体験がある。

 

わたしは中学に上がったくらいから急速に視力が悪くなった。

 

母が強度の近視だったので遺伝でしょうがないと思っていたが、当時メガネをかけることはカッコ悪いことだったので、メガネを持っていても使うことは少なかった。

 

そんな生活が続くと見えてない状態が生活に支障が無ければ許容範囲に収まり自然なこととなる。

 

わたしが学校でメガネを使うのは雨や曇りで外が暗い時くらいだったが、そんな時に気が付いたら思うようになったことが、相手の顔がはっきり見え過ぎて気持ち悪いということだった。

 

ニキビの跡やヒゲや鼻毛、見えなくてもいいものが見える不快感だった。

 

そして、そんなある日ふと思いついたことが、わたしにとってはメガネをかけた時だけ見えてることは、視力が悪くない人にはありふれた日常で、そんな目でわたしは見られているのだということだ。

 

ふだん、自分が鏡を見ても気付かないことに、周りの人は自分より先に気付いているのかもしれないという気持ち悪さだった。

 

この気持ちは、中学高校とあったような気がするが、気が付いたら無くなっていた、おそらく大学入学がキッカケで治ったような気がするが、だとすると自己肯定感が大きく影響してるのかもしれないと思える。

 

ただ、克服したというよりも消えて無くなったという感じだ。

 

 

だから、視線耐性には視力や見方もキッカケとして関係してるかもしれないと、少し感じている。

 

 

視線耐性のチェック方法として、

 

 

視線耐性ということばが出てきたということは、「視線耐性が低いこと」は病気と認定される可能性が大だろう。

 

そうすると、対処するための各種セミナーや薬が出てくることは間違いないだろうが、私がそうであったように、キッカケ次第で簡単に解消する。

 

 

 

リンク先の記事では、メディアへの接触時間を減らすことが大事だと書いてるが、少しピント外れだと感じる。

 

ただ、スマホやパソコンなどのデジタルデバイスを長時間使い続けるその姿勢には問題が多いかもしれない。

 

視野や視界が狭くなることが良くないのではと感じられる。

 

カメラに例えるならば、圧倒的に多くの日常をズームやマクロで見ていて、広角で捉えることが少ないから起きてる現象に思える。

 

ズームやマクロの良さやおもしろさは専門性やこだわりを活かす場合に向いているが汎用性は低くなる、それに対して広角は汎用性は高いがおもしろみが少なくなる。

 

これらは、交互に使い分けることで互いの魅力が出てくる。

 

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https://www.maturikun.com/beginner-canon-lens

 

 

視線耐性が低い状態は、上図のピンクの度合いが強くかつ手前ばかり見てるのだ(私の解釈)。

 

視線耐性が低く、かつデジタルの使い過ぎに自覚がある場合は、視線を上げて周りや遠くを見る習慣を徐々に増やせば良いだろう、その際に他人の顔ではなく背景や風景や景色に目を向けるとやりやすいだろう。

 

視線耐性が高い低いという話は、楽観主義と悲観主義の関係に良く似てそう!

騙す人も騙される人も不幸な人々

おもしろいツイートがあった。

 

 

これに対してなされたリプライが、

 

 

以下リプライがたくさん続くが印象的なやりとりを抜粋すると、

 

 

 

「心を見せない者」=「良くわからない人物」=「詐欺師」と導き出せそうで、すごく共感できた。

 

おもしろい話だなと思っていたら、それを具体的な事例として説明するような実話が聞こえてきた。

 

ココリコ遠藤 投資詐欺で「中古の二世帯住宅」ほどの金額取られた…

遠藤に話を持ちかけたのは、米ロサンゼルスでのイベントの仕事で出会った男で、都内の人気美容室の名前で地方に展開する新店舗に出資すれば、新店舗のオーナーになれ、売り上げの50パーセントが半永久的に入ってくるというもの。

 

遠藤は3年前に放送されたテレビ番組でも、未公開株詐欺に引っ掛かって数千万円を失ったことを告白。

 

また、今回の番組では、最近も友人に勧められてビットコインに投資して「買った瞬間から暴落」したことも明かしていた。

 

 

 

この話だけを聞けば、現代では多くの人が次のように思うだろう。

 

 

上記の式は更に次のようになりそうだ。

 

「心を見せない者」=「良くわからない人物」=「詐欺師」=「美味しい話を教えるフリをする人」

 

ここまで分解できると、少し詐欺の構造が見えてきそうな気がする。

 

「美味しい話」に気を付けろ、とは誰でも考えるが、世の中には間違いなく「美味しい話」は存在するので悩ましくなる。

 

「美味しい話」を分析するよりも、それをもたらすのが誰かを分析する方が的確な判断ができるかもしれない。

 

詐欺が成立する場合は、役者は二人だ。

 

「騙す人」と「騙される人」。

 

心理学の分野では定番のテーマで、昔から詐欺の処方箋はたくさんあるが多くは学者や研究者や役所(警察や消費者関連)のことばで発されるが、それらの多くは他人事としてだ。

 

そうなるのは医者が患者と向き合うようなものではないからだが、被験者を研究対象としてだけではなく、その悩みも解決してあげたいという目線で「騙す人」と「騙される人」を捉える場合はこのようになる。

 

 

伝わる世間の声によると、「騙す人」は金持ちで、儲けた金で好き勝手なことができる幸せな人と見る向きもあるようだが、「騙す人」も「騙される人」も似た者同士なのだ。

 

昨夜のドラマ相棒17:第13話 人気フリマアプリに隠された謎に特命係が挑むは、フリマアプリで売買をする人の心の奥を描く心理描写が事件の鍵を握っていたが、そこに描かれていたことも騙す騙されるを通じての不幸の連鎖が描かれていたように感じられた。

 

しかし、そんな不幸が描かれたドラマも脚本が巧みであれば、ささやかな幸せを求める健気さが醸し出される。

 

騙す騙されるの世界観は、不幸が織り成す世界観だが、脚本が良ければそうは見えない。

 

知識で武装しても、感情や心理を揺さぶるような仕掛けには弱いかもしれない。

 

 

昨夜「相棒」を見ながら何となく思ったことは、「歴史は繰り返す」だった。

悲観主義的な血圧対策、楽観主義的な体温上昇対策!

意識高く食事にも運動にも気を配ってるつもりながら高血圧になることがある、わたしだ。

 

処方された降圧剤を飲むとすぐに下がるが、時として急激な低血圧で貧血みたいな状態が起こることもある。

 

それが嫌で降圧剤の服用をやめると数日後から血圧が上がり出す。

 

降圧剤の服用を継続的にやめて(現在継続中)気付いたことがある。

 

体のパフォーマンスが上がるのが実感できる。

 

全身に力がみなぎるのを実感出来るのだ。

 

そこで一つの疑問が湧いてくる、と言うかむしろ拭えなくなると言ったほうがふさわしいかもしれない疑問だ。

 

運動すると血圧が下がる(運動時の血圧と言う意味ではない)と言われるが、絶対に運動することで血圧が上がってる人たちがいるはずだ、という疑問だ。

 

もうちょっと具体的に言うと、『力(りき)む』と高血圧の関係を知りたいと思い始めたので、そんな世間の声を拾ってみた。

 

ちなみにわたしは酒もタバコも全くしないが、食事に関しては意識が低くなることはある。

 

血圧は、何気ないことでも簡単に変動するのはお約束だから、喜んだり悲しんだりでも簡単に変動する。

 

簡単な注意点を一つ上げておくと、

 

 

力(りき)む代表格のボディビル、やっぱりと言う話があった。

 

 

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ライザップで脳出血も、特に高血圧は筋トレには要注意

 

 

これらの場合、呼吸が大きく関係してるようで無酸素で最大パワーを出そうとすることが良くないようなので、力む時には「息を吐きながら」が重要になる。

 

 

ところで血圧は適正値としての基準が設けられてるが、それは安静時の血圧だ。

 

この安静時というものにも疑問が付きまとう。

 

 

 

では、運動時の血圧ってどの位なのだろうか?

 

高血圧が原因で脳出血を起こした方のツイートが下記。

 

 

バスケ部に所属している大学生の事例。

 

 

事例が少ないので参考にはならないが、とにかく血圧は変動が大きいと言うことはわかる。

 

 

年齢は不明だが剣道をやっている方。

 

 

脳梗塞や心筋梗塞、その他血管や血流の悪化に起因して症状が出る病気の陰には高血圧が必ず関係してると言うことだけは間違いないのだが、高血圧であれば必ず発症するわけではないのが悩ましい。

 

白衣高血圧という言葉がある。

 

平時は適正値だが、病院で計測すると高い値を記録するという現象で、緊張感が災いすると言われている。

 

私自身も白衣高血圧のタイプだが、母も同様で遺伝だなと感じている。

 

薬を飲んで自宅では適正値に保っていても、病院に行くと尋常じゃない位上昇し110ー200なんて数字は決して珍しくない。

 

血圧計の精度が違うのかと自宅の血圧計を持ち込んで計測したこともあるが、ほぼ同じ数値を示すので、血圧計ではなく性格が関連してることは間違いないはずだ。

 

ちなみに、診察が終わって病院内で再度計測すると高血圧だがずいぶん下がった値になり、帰宅後測ると適正値になってるという具合なのだが、緊張してるという自覚はないのだが緊張してるのだろう。

 

私の悪い癖なのだが、細かいことが気になってしまう、きっとそのせい。

 

ただ、理由があっても高血圧は良くないことだけは確かだから、なんとかしたいものだと思っている。

 

一つ意識したいと思っていることがある、血圧には血流が関係している。

 

血流がスムーズでないから血圧が上がるのだが、その一つの要素が「力(りき)む」で、これを減らすことと、結果的に血流がスムーズになれば体温は上昇するのだ。

 

高血圧の人って、暑がりのイメージがあるが体温が低い場合が多いのだ。

 

高血圧対策と考えるのではなく、体温を上げると考えると意識が変わりそうだ。

 

今は冬だからわかりやすいが、手足が冷えるのも血流の悪さを示し、高血圧も低血圧も原因になる。

 

わたしは体温は低くはないが手足の冷えを感じることはあるので血流に問題があるのは間違いないだろう。

 

「体温1度上昇」で免疫力は30〜40%もアップする! 体温を上げて病気知らずの体に

 

ここに書いてある血管の元気度チェックは、良かれと思ってることは血管には良くないと教えてくれて参考になる。

 

血圧対策は、あれがダメこれがダメというものが多いが、体温を上げることは「あれをやろう、これをやろう」とポジティブに取り組めることが多いので、意識をシフトさせると良いかもしれない。

 

同じことに取り組んでいても血圧対策はネガティブで悲観主義的で、体温上昇対策はポジティブで楽観主義的に感じられる!

人類にとって最大の発明は何か?

世の中がどのように変化するかと同じくらい気になるのが、今後どのような変化が訪れても変わらないであろうこととは何かだ。

 

そういうものの多くは、既に存在してるはずだが、そのことを考えていると昔読んだ本に書いてあった事を思い出す。

 

その内容に触れる前に、一般的に言われてる事を整理してみた。

 

世界を変えた人類史上最も偉大な発明・発見30選

  1. ポリオワクチン                1953年
  2. クローン技術                    1996年
  3. ブラックホール                1916年
  4. 相対性理論                        1905年
  5. 地球のマントルと核        1914年
  6. ワクチン                            1798年
  7. コンピュータ                     20世紀
  8. デオキシリボ核酸(DNA)  1953年
  9. ラジオ                                1895年
  10. 蒸気タービン                    1884年
  11. 血液型                                1897年
  12. 電気                                   18-19世紀
  13. 飛行機                               1903年
  14. 殺菌                                   1863年
  15. テレビ                                20世紀
  16. X線                                   1895年
  17. 万有引力の法則               16世紀
  18. 電波                                  19世紀
  19. ニトロ化合物                   1918年
  20. ペニシリン                       1928年
  21. 半導体トランジスター   1947年
  22. 核分裂                               1939年
  23. ドップラー効果               1848年
  24. インターネット              1960年代
  25. 元素周期表                      1880年
  26. 放射性物質                     19世紀初頭
  27. 内燃機関                         19世紀
  28. 地動説                             15世紀初期
  29. 麻酔(笑気ガスを用い)  1801年
  30. 酸素                                 1774年

 

人類史上最も偉大な発明ランキング(紀元前・中世・近代・現代)

紀元前

5位麻酔(薬ではなく頚動脈を圧迫させることで)

4位 裁縫の技術

3位 アルコール飲料

2位 金属加工技術

1位 車輪と車軸

 

中世

5位 紙

4位 アラビア数字

3位 レンズ

2位 火薬

1位 活版印刷技術

 

近代

5位 輸血技術

4位 鉄筋コンクリート

3位 電話

2位 動力飛行機

1位 蒸気機関

 

現代

3位 人工衛星

2位 インターネット

1位 パーソナルコンピューター

 

 

 

 

こうやって並べてみると、人類がどのように進歩してきたがなんとなく見えてくるが、これを踏まえたところで、以前わたしが読んだ本の話に触れてみたい。

 

わたしが読んだ本には、次の本を読んだ感想が書かれていて、その本を読んだわけではない、要は又聞きみたいなものだ。

 

 

 

過去に何度か検索を掛けたが何もヒットしなかったが、今回ひさびさに検索したらいくつかヒットした。

 

インターネットが無ければ、知っているけど絶対出会えなかった情報と言えるはずだ。

 

ジョン・ブロックマン編  2000年間で 最大の発明は何か

 

ここには要約が書いてあるが、わたしが読んだ本を参考に更にザックリと要約するとこうなる。

 

まもなく21世紀を迎える頃、ジョン・ブロックマンはインターネットを用い世界中の著名な科学者や技術者に「2000年間で最大の発明は何か」と問いかけ、その回答を本にまとめた。

 

この調査では、先に回答した人の答えを見ることができたらしいので、その回答は学者や研究者の自己顕示欲や功名心を刺激したらしく、本来意図した答えから外れるようなものも多かったらしい。

 

意図通りに得られた答えは、上記で引用したサイトの内容と似たもので、むしろこれらの答えはジョン・ブロックマンの調査結果を参考にしてると言った方が良いはずだと思われる。

 

ジョン・ブロックマンの調査で得られた結果の面白い点は、「真に大物の発明は2000年より前に生まれている」という指摘があることだ。

 

 

 

真に大物の2000年より前に生まれた発明として、

 

・言語

・火

・石器

・農業

・牧畜

・車輪

・美術

・音楽

 

などがあげられている。

 

そして、もう一つ興味ある指摘がなされてる。

 

指摘したのはヘンリー・ワーウィックという美術や作曲も手がける科学者で、「発明は全て不幸な結果か無益に終わる」というもの。

 

覚えておいて損はない考え方だろう。

 

わたしが読んだ本というのは、

 

 

 

著者の長尾さんは元電通マンだが、「文明は自転車くらいがちょうど良い」という持論の持ち主だ。

 

この持論には大いに共感するが、わたしにとってはインターネットのありがたさを再認識する結果にもなった。