対立関係は、価値観や感性がものすごく距離的に離れているから起きるような気になるが、実際の対立はすごく身近なところで起きている。
そして対立しながらも共存できてる場合、そこには自ずと「GIVE&TAKE」の関係が成り立っていることに気付くこともある、しかしその関係は意外と見え辛い。
打合せで、give-and-takeを、仏語ではdonnant-donnant(英語に直訳するとgiving-giving)と知って、お互い様、により近いというか、なんとなくしっくり来た。良い時もそうでない時も、ドノンドノン。何だか早く使ってみたくなるな。うずうず。笑
— miyuki fukuma (@irisris) November 28, 2017
世の中には、嫌われているのに無くならないことがあるが、それは目に見えない「お互い様」が成立しているからかもしれない。
「昨日の敵は今日の友、その逆もまた真なり――。このダイナミズムが残るかぎり、ネット企業は老舗であれ表舞台に立ち続ける」 / “昨日は楽天、今日ヤフー 攻守逆転の異端児たち :日本経済新聞” https://t.co/RiNnWtpYez
— たなゆき(田中幸宏) (@tanayuki) January 23, 2019
そのように考えると、両極端だと思われてる「被害者と加害者」の関係は、本当は表裏一体のようなものかもしれないとも思えてくる。
フェイクニュースは、悪い事とされ叩かれるが一向に減らないどころか、その作成にAIが絡むことによってますます巧妙化するとすら言われている。
フェイクニュースの反対語は何になるだろうか?
フェイクニュースの反対語は「真実」となるのが一般の解釈だろうが、フェイクの反対の意味にピュアやネイキッドがあげられることから、ただの真実ではなく、そこに純粋さやむき出し感があるような真実と考えられる。
「一般的な真実」とは、「ピュアでネイキッドな真実」に対して、社会の許容範囲に収まる程度の味付けや加工がされたものと言えるかもしれない。
そして、許容範囲を超えて加工が施されたものがフェイクに該当するのかもしれない。
だとすると、真実もフェイクもグラデーション上の色の濃淡に近いのかもしれない。
そう考えると、当事者には全く違う、嘘としか言えないことが、無関係な第三者には、色が濃いか薄いかの違いにしか理解されないということが起きていることの説明がつくような気がしてくる。
そのようなフェイクに対して、わたしが興味があるのは内容の是非よりもその動機の由来だ。
フェイクが産まれる動機として考えられるのは、
- 悪意に満ち溢れたもの
- 立場から出るポジショントーク
- 理解が間違っている・誤解
などが考えられるが、この図を作りながら少し迷ったのが、「ピュアでネイキッドな真実」のサイズをもっと小さな「点」に近く表現しようかとも思ったが、真実と言われてることってわりと曖昧な中途半端なサイズかもしれないとも思えてきたのが次のような理由からだ。
光の当て方を変えると、違った形に見えると言うことは図形を相手にしてる場合は説明しやすいが、人間の行動を説明する時にはさらに複雑さを増す。
下図のように、人の動きを立体的に補足するだけでも複数の無限に近い視点を設定できる。
https://astamuse.com/ja/published/JP/No/2018106496
これに、関係する当事者の感情や個人的に抱えてる事情などさまざまな影響因子があり、それらを考慮に入れると、真実とはかなり指し示す範囲が広い曖昧なものにならざるを得なくなるので、図のように大きなサイズの方が相応しいと思い直した。
「真実」を例に挙げたが、「」内のことばは、大事なことや重要なことだと思われてる多くのことに当てはまるかもしれない。
この曖昧さの最たるものが、
昨日の敵は今日の友(=昨日の友は今日の敵)
こう言うことは世間にはたくさんある。
https://t.co/6ImOLrCAIu 結局,政治家ではなく,「特権多い国会議員」で在り続けたい思いが先に立ち,「寄らば大樹」ってことで,形振り構わずなんだろうと。「ホテル自民」に二階から忍び込んだ彼を,自民党議員も笑っていると思いますよ。「昨日の敵は今日の(臭いメシ)友」には成れるかも?
— Had gone (@bbc2468) January 31, 2019
“Win” “Win”の崩壊。昨日の友は今日の敵。それが嫌なら買収か自前でやるしかないよな… → 楽天が自前でやるなら別のパートナー考える=NTT社長 https://t.co/Z9Cbqxl0fB
— 大久保惠司 (@keijix55) February 9, 2018
“ステージでは2人がお互いの持ちネタをコピーしたあと、お盆2枚を使った息ピッタリの芸を展開”/昨日の敵は今日の友、とに安&アキラ100%が「エンタの神様」で裸コラボ(コメントあり) - お笑いナタリー https://t.co/UPmQO0zjRu
— てれびのスキマ/戸部田 誠 (@u5u) September 30, 2017
リンク先の記事には、
安村がアキラに「あんな下品な芸は見たことがない」と宣戦布告して一触即発状態の2人だったが、今回のコラボで意気投合した様子。アキラは「昨日の敵は今日の友、そんな感じです! コラボできてむちゃくちゃうれしかった」、安村は「初めてお盆芸をやったんですけど、実際やってみると難しくて、改めてアキラさんはすごい芸をやってるんだなって思いました」とコメントした。
わたしは昔から乱視が強いのだが、そのことを日常で意識することはほとんど無かったが、最近は意識せざるを得ないことが増えている。
有り体に言うと、自分の目に見えたものを一回咀嚼する必要が増えているので、自分の目を無条件に信用できないのだ。
自分にとって、自分だけは信用できる存在でありたいが、それすら当たり前のことではないと感じられると、自分自身の中にすら「昨日の友は今日の敵」が潜んでいることを意識せざるを得なくなる。
しかし、今日改めて考えていると、私たちが敵や味方だと色分けしてるものの多くは、いつでも容易に敵だと思ってるものが味方になったり、その逆があったりするのが当たり前だと思えてくる。
なんだかうまくいかないなという場合は、一度立ち止まって、先入観で持っている敵と味方のイメージを入れ替えてみるのもおもしろい発見につながるかもしれない。