違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

人間関係の断捨離!

インターネット上では否定的な反応が多数出てくることを炎上と呼び、好意的な反応が多いことをバズると呼ぶが、その線引きは明確ではない。

 

 

ただ結果的に、炎上であってもそこに人が集まると市場が形成されるようになると儲けにつながるために意図的な炎上が仕掛けられることは決して珍しいことではなくなった。

 

ビジネスに限らず、恋愛を含めた人間関係に関しては、『相手にされない(=印象に残らない)くらいだったら嫌われてでも印象に残る方がマシ』という考え方がある。

 

 

いつの頃からか、炎上というのは有名人や有名になりたい人々が、人々に自分の存在をアピールするための戦略や戦術として用いられるようになり、政治家ですら参戦している。

 

 

本来だったらバズることを目指すべき人が炎上を狙うことは、実力不足を意味するが、広告宣伝の世界では良くも悪くも話題になり露出が増えることを良しとする考えが強いので、正論をアピールして反応が得られないくらいだったら悪目立ちしてでも反響を得ようとする考えは未だに根強い。

 

 

 

昔から日本では社会風刺やパロディが文化として中途半端だと言われているが、それはお上への皮肉をお上の顔色を伺いながら言うという日本人の特性が現れるからだろう。

 

つまり、文化が純粋に独立してないからだ。

 

 

日本の風刺画に感じる停滞感|イラストレーションについて話そう 伊野孝行×南伸坊:WEB対談

伸坊:イラストレーションの成り立ちからいえば、日本の場合は広告から生まれているんで、「広告主が望む絵」ってのが最初にあったんでしょうね。そこに飽き足らない人はもうちょっと自由度のあるエディトリアルの方に行った。クライアントから文句言われたら直すもんだってところからは、なかなか面白いものは生まれないでしょ。

だいたい、お金を出してるからって口出してくるってのが間違いなんだよね。広告でわざわざクライアントの悪口を言おうとするイラストレーターやデザイナーはいないと思いますよ。広告の効果を高めようとして自分の技術を提供しているわけだから、それに文句つけられたらやる気なくなる。

 

 

きちんとしたデータがあるわけではないが、炎上が賞味期限切れになっているように感じられる。

 

賞味期限切れを感じる炎上の特徴として、

 

  • 意図が見え透いている

 

  • 炎上の手法が古臭い

 

 

一言で言うと飽きてしまった感じなのだ。

 

炎上が盛り上がっていた頃は、多くの人が新鮮に感じられたのは、炎上はハプニングとして起きていたし、仕掛けられたものであってもハプニングとして通用していたからだろうが、最近の炎上はパターン化を感じさせる予定調和にしか見えなくなった。

 

テレビのバラエティ番組が飽きられるパターンと似ている。

 

飽きたのはあくまでも無関係な傍観者で、関係するであろう人にとってはmetooな出来事になりやすくなっている。

 

不用意な発言が全てをパーにした話として有名なのが次の話。

 

 

 

無難な発言しかしないアカウントがつまらないのは事実ですし、本音をハッキリ言ってくれるアカウントが人気を集める傾向にあるのは事実です。

ただ、今回のステファーノガッバーナ氏の発言に関しては、明らかに中国国民からすると一線を完全に越えてしまった発言であり、ドルチェ&ガッバーナは文字通り一夜にして(正確には夜を迎える前の数時間に)中国市場の全てを失うことになってしまったわけです。

 

 

 

炎上は、今や広告宣伝効果は薄くなり、少し前まではリーチしていた人々にリーチしなくなり、少し前まではリーチしなかった人々にリーチした途端にmetooの逆襲を受けるようになっている。

 

資生堂CMが炎上で公開中止 なぜ資生堂の広告で女性蔑視が繰り返されてしまうのか   2019/05/21

資生堂の日焼け止めブランド・ANESSA(アネッサ)のCMが物議をかもしている。資生堂は5月16にアネッサのブランドサイトとYouTubeでウェブ動画を公開したが、たった1日でプロモーションを終了したのだ。

 

 

わずか1日での公開終了というのは不可思議な現象。資生堂側は<プロモーションの期間が終了したため>と説明しているが、素直に信じろというほうが無理な話だ。

 

 

 

炎上を観察分析した結果、炎上を起こすのはノイジーマイノリティと呼ばれるごく少数の人だと判明したが、炎上を起こすことは市場を作るということも分かったために、炎上を企てる人が増え、企画モノの炎上劇が増えた結果、炎上の価値や効果も変化していった。

 

悪目立ちする炎上が増えたことで麻痺した感覚が、悪目立ちするものへの警戒感だ。

 

報道やワイドショーでもピンからキリまでの目立つ人(芸達者から犯罪者まで)を取り上げるので、少々のことでは驚かなくなっている。

 

しかし、炎上が狙った効果を得られなくなるという流れに転じたということは、悪目立ちも裏目に出ることをつながるだろう。

 

これからは、悪目立ちをすると人生に汚点を残すことになるかもしれない。

 

では、印象に残らないことをどう対策すれば良いだろうか?

 

印象に残るためには、二つの方法がある。

 

一つはテクニックとしてで、炎上にも通じる手法で、新聞の一面に大見出しが出るような扱いであり、テレビのゴールデンタイムに放送されるように、露出を目立たせ多くの人にリーチするという方法だが、これがすでに限界というか飽和状態に達している。

 

この手法の影響力は、自分自身のためというよりも、世間の動向に及ぶことが多い。

 

 

もう一つは、世間の動向ではなく、自分自身のためになると感じられることだ。

 

そのために重要なことはメッセージが込められてるかだ。

 

メッセージというのは、届かない人には影響力や印象はゼロだが、届いた場合は『刺さる』。

 

メッセージが誰にどのように刺さるかは、発信者には全く分からない。

 

メッセージは、刺さるか刺さらないかということは、100点か0点かと同じだ。

 

 

世間を意識して行動する場合には、そこそこの点数例えば80点が取れれば良いと考えがちだが、メッセージを刺さらせることを考えると、80点は0点と同じになる。

 

これまで主流だった世間の反応を見ながら自分の態度を決めるという手法が、もし変化してるとするならば、一人一人がなんでも良いから100点を取れることをメッセージとして持つ必要があるかもしれない。

 

しかし、自分が持ってるものの中の何がメッセージになるのかは本人にはなかなか分かりづらいのだ。

 

弱みを曝け出すことがメッセージになる場合もあるし、ノウハウを伝えることがメッセージになる場合もある。

 

自分の価値を決めてくれるのは他人だという当たり前の答えに行き着くのだ。

 

メッセージのある生き方は、身の丈に合った生き方をしながら、能動的に行動していれば身につく。

 

そうすれば、同じような生き方や価値観の人には刺さる。

 

もちろん、嘘や作り事でもタイミングが合えばどこかの誰かには

刺さる可能性があるが、それは詐欺で犯罪。

 

 

メッセージが無いということは、身の丈に合った生き方をしてないか、受け身で行動してるか、ということを示している。

 

どちらも、気持ち一つで切り替えられるが、身近な人間関係が抵抗勢力になることが多い。

 

価値観や行動を変えようとする場合、自分一人ではなかなかできなかったりする。

 

 

こういう時に、人間関係の断捨離が必要になる。

 

 

癒しの鳥!

ペットに興味あるけど飼えない人は大勢いるだろう。

 

生き物を育てるのは大変だという理由が一つ。

 

その覚悟はあっても、周りの環境がそれを許さない場合がもう一つ。

 

わたしもそんな一人だが、密かな楽しみがある。

 

もう10年以上になるが、仏壇に供えたゴハンや残り物のゴハンを庭に撒くくようになったらさまざまな鳥が集まるようになったのだ。

 

そんな中でも鳩とカラスは大嫌いなので、来ると殺意剥き出しで追っ払ってるうちに来なくなった。

 

今来る鳥は、動きを見てるだけで癒しを感じる。

 

いつか、この庭に来る鳥をブログで取り上げたいと思っていたが、実現が遅れたのは写真が撮れないからだ。

 

写真を撮ろうとするとすぐに逃げるし、撮ってもピンボケばかりになるからだ。

 

今回、ちょっと変わった出来事があり、一部写真が撮れていたのでそれを整理してみた。

 

庭に来る鳥の中に、カササギがいる。

 

カササギは、カチドリやカチガラスとも呼ばれる鳥で、カラスより一回り小さいサイズで、カラスに似てるが色が黒と白と紺の3色のためか高貴で凛とした印象がある鳥で、わたしのお気に入りでもある。

 

わたしにとっては、カササギと呼ぶよりもカチガラスの方が馴染みがあるので以下はカチガラスと呼ぶ。

 

家のそばの電柱に巣を作っている。

 

次の写真は二階のバルコニーから巣を捉えた写真。

 

 

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ゴールデンウイークの前頃から、このカチガラスの巣をカラスが襲おうとするシーンを何度か見かけていたのだが、その都度つがいのカチガラスがカラスを必死で撃退していた。

 

おそらく巣にひながいてカラスはひなを狙っているんだろうなとは想像していたが、ひなが無事かどうかは不明だった。

 

そして一週間ほど前に二階バルコニーのエアコンの室外機の周辺でバサッ、バサッと音がし、二階の周辺をつがいのカチガラスがギーギー鳴きながら飛んでいたのでカラスとケンカしてるのかなと思って恐る恐る室外機を見ると、

 

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写りが悪いから分かりづらいが、室外機と雨戸の間にカチガラスが入り込んでいるのだ。

 

おそらく周りを飛んでいるつがいのひなだと思われる。

 

カラスの襲撃は無事にかわしていたんだとホッとするとともに、もしかしてケガをして動けなくなってるのだろうか、あるいは羽でも折れてるんだろうかと気になるし、ひなを覗いてるわたしをみてつがいが騒いでいるのを見ると助けてはいけないような気もして、どうするのが正解なんだろうかと思いつつつがいがそばにいるので、しばらくほっておこうと思ったが、それが先週の日曜日の午後2時頃。

 

 

4時頃、恐る恐る室外機を覗くと、もういなかったので、「な〜んだ大したことなかったんだ」とホッとして巣の方向を見ると、

 

 

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物干し竿のスタンドに乗っかっていた。(この写真はズーム)

 

この様子からすると、飛ぶことは問題無さそうだが、つがいは隣の家の屋根の上からこちらを見ていた。

 

日が暮れる前に巣に戻ると良いのになと思いながら写真だけ撮っておこうと、すぐそばから網戸越しに撮ったのがこの写真。

 

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5時半頃になってもこの状態で、タイムリミットが迫っているなと心配になったが、ほっておくのが一番だろうとその場を静かに離れた。

 

次に確認したのはタイムリミットの6時半だったが、幸いなことにもういなくなっていた。

 

これで万事無事に解決したなと思って、バルコニーを見渡すと、結構な数のフンをおみやげに残してくれていた。

 

生き物を育てるのは大変だとあらためて思った一日だった。

 

エサはあげてるけど懐いてはいない、そのくらいの距離感が癒やしには丁度良いかもしれないと思えたできごとだった。

 

小さな目標を繰り返し立てるよりも、大きな目標を一つ立てる方が良い!

100m走を例にあげると、

 

世界最高レベルの競争だと競争時間は10秒。

 

スタートからゴールまでが10秒という世界。

 

 

 

 

 

桐生祥秀が100m10秒を切ったのは21歳の時で、この記事から5年後。

 

 

100m10秒を競う世界は、見てるだけの人にはスタートからゴールまでが10秒以内の世界に見えるだろうが、100m10秒を意識してから達成するまでと考えると、桐生祥秀の場合は0.2秒を縮めるために5年を費やしている。

 

桐生祥秀にとってスタートはいつだったのかは本人のみぞ知る話だろうが、実際には本人もいつがスタートだったのかは本当はよく分からないかもしれない。

 

表面的にはスタートからゴールまでが10秒に見える世界は、実際には途轍もなく長い時間の競争が行われているのだ。

 

 

人生とは、生まれてから死ぬまで。

 

生まれることがスタートで、死ぬことがゴールとするならば、ほとんどのケースでスタートもゴールも本人の希望や意志を反映したものではないように感じられる。

 

しかし、生きている間には、人生に比べると短いスパンで自らの意志でスタートとゴールを設定して一喜一憂することを何度も繰り返し経験する。

 

希望の学校に入学するために受験をしようと決意すると、ゴールは受験に合格することだと思ってしまう。

 

しかし、よく考えると実は希望の学校に入学することこそが本当はスタートを意味してるはずなのに、そのことは見過ごされることが多い。

 

就職や転職や結婚など人生の節目のイベントの多くは、スタートなのかゴールなのかの勘違いが起きやすい。

 

多くの場合で、実際にはそこからがスタートなのに、まるでそこがゴールであるかのように振る舞うことがある。

 

それは、スタートにつくためにはその手前の目標でゴールに達していなければならず、ゴールに達するとすぐに次のスタートが始まるということを繰り返しているので、その都度のゴールを目指し続けるとストレスを抱え続け、抱えてるストレスの許容範囲が尽きてしまうと、そこがゴールであるかのように息切れするのだろう。

 

もし、大きな目標を一つだけ掲げていると、その途上にある小さな目標に一喜一憂することなく、また途中の目標は臨機応変に対応でき、時には遠回りのような迂回や、時には思い切りショートカットした道筋を選択したりできるだろう。

 

ところで、人生のゴールが死だとすると、大きな目標として何を掲げれば良いのだろうか?

 

人間が夢中になる小さな目標の定番は、

 

  • お金
  • 名誉
  • 健康
  • 人間関係

 

目標だと思ってることの多くは、不満があるからスタートするが、その先にゴールが設定がされてるケースはほとんどない。

 

ゴールは蜃気楼のようなもので、達したと思ったら、手の届かないところに移動していることが多い。

 

死ぬことを意識すると、残り時間をカウントするような意識が働く。

 

そうすると、時間を大切にしたいという意識が芽生える。

 

時間を大切にすると考えると、起きて活動することに価値を見出そうとするが、起きて活動することを質的に高めようとすればするほど重要なことは休息や睡眠だということが現代では明らかになっている。

 

スタートとゴール(=目標)の関係は、単純明快なものではなく、禅問答のような世界観と表裏一体なのだ。

 

 

芸術家の岡本太郎はこう言っている。

 

 

人間は誰だって、

 

この世に生まれようとして生まれてきたわけじゃない。

 

でも、この世に出てきたからには、

 

誰だっておもしろい生き方をしたいよね。

 

危険な条件のほうに自分の運命を賭けるほうが

 

情熱がわいてくるものだ。

 

おのれだけが自分じゃない。

 

向こうから追ってくる運命というのも、自分自身なんだよ。

 

 

 

この本から引用。

 

 

 

 

人生が後半に入ったと思うならば、小さな目標を一つ一つクリアして段階的にレベルアップすることを考えることよりも、自分の心がスッキリ爽やかになるような目標を一つだけ掲げ、それに向かって生きるというほうが楽しそうな気がする。

 

 

どんな目標(=ゴール)を描くかかは、どんな生き方をするかであり、それこそが個性であり、どんな死に方を目指すかにつながるだろう。

人生の軌道を狂わせるのは寂しさ!

動くものの道筋を軌道と呼ぶが、夜空に輝く星の動きも軌道を描いている。

 

軌道を描いている星の数は一体どのくらいあるかと言うと、それこそ星の数ほどあるのだ。

 

 

これだけ膨大な数の星が、たまには衝突することがあっても、ほとんどの星は衝突することなく軌道を描いている。

 

軌道には、壮大なドラマがあるようにも思える。

 

 

そんな軌道は比喩的な意味で使われることも多い。

 

人間の生き方も比喩的に軌道と表現されることがある。

 

 

ネットやTwitterで「人生」「軌道」で検索すると、膨大な「人生はいくらでも軌道修正できる」という書き込みが出てくる。

 

そう思い込んでる人が多いからなのか、それともそう思いたいからなのかは分からないが。

 

軌道修正ができるというと、自由に好き勝手に軌道を選べるというイメージがあるが、本来の軌道は力学的なバランスで成り立つものだ。

 

自然界や宇宙に存在する軌道は、重力や引力とのバランスで決定される。

 

 

では人生の軌道の場合、重力や引力に相当するものは何なのだろうか?

 

 

寂しさにも様々なものがあるだろうが、人それぞれの人生に作用している重力や引力のバランスを崩させるのは寂しさなのかもしれない。

 

 

 

寂しさが厄介なのは、寂しいとストレートにアピールせずに、別の感情にすり替えて、本人ですら寂しさが原因だと気付かない点にある。

 

 

また、寂しさは依存に繋がりやすく、依存する相手が人ならばその気持ちを愛だと勘違いしがちで、依存する相手が人以外だったら中毒になりがちだ。

 

依存の代表例を上げると、

 

  • アルコール

 

  • タバコ

 

  • 薬物

 

  • 過食

 

  • ギャンブル

 

  • 買い物

 

  • ゲーム

 

  • DV

 

  • 虐待

 

  • ストーカー

 

 

など。

 

これらを見ると、この依存分野は現代ではビジネスの市場としても機能してることが分かる。

 

 

 

 

では一体、寂しさとは何なのだろうか?

 

 

語源を遡ると、「人の気配がなく物音がしない」という意味らしい。

 

それに対して現代に用いられる「寂しい」は、周りに人がいるのに、物音はたくさんしているのに感じるものになっている。

 

つまり、質的に全く違うことばになっている。

 

 

昔の寂しいには、寂しさを感じてる当人は不安を感じたり、心が不安定だったりするわけではなさそうなのに対して、現代の寂しいには、心が不安定な様子が感じられる。

 

昔の寂しいは、自分の外側の環境や状態を示すことばだったのに対し、現代の寂しいは、自分の心や内面を示すことばになっているのだ。

 

心が不安定ということは、自己肯定感が低いということで、自己肯定感が低いということは、「自分で自分が好きになれない」という状態に近いのだろう。

 

 

上手く行かないことが続く時に、自分を好きになれないことがあったとしても、そこから抜け出す方法を考えてる限り自分を嫌いになったりはしない。

 

しかし、抜け出すことを考えずに、適度に折り合いを付けようとし出すと、何かに依存することが始まる。

 

 

寂しさが嵩じて依存に発展した場合の依存は脳の病気だと世間では位置付けられるようだが、寂しさ自体も心の病気で、心が体や行動への悪影響のきっかけになっているのだ。

 

 

成人病や生活習慣病は複雑怪奇な病だが、基本は食べ過ぎが原因で起こる病気。

 

人間のDNAには、飢えに対する備えはプログラミングされてるが、過食に対してはプログラミングされてないので、過食が原因で複雑怪奇な症状が出ると思える。

 

逆に寂しさは、DNAレベルでは自己肯定感を阻害するようにはプログラミングされてないのに、定義が変化したら別のプログラミングされていた心理学的な何かが刺激され暴走し始めたように感じられる。

 

 

独りでいることを寂しいと感じるのは、かなりの危険サインだと思った方が良さそうだ。

 

やる気とオノマトペの関係!

悪循環に陥ると、やっちゃいけないことばかり行い、やれば良いことを全くやろうとしなくなる。

 

時には人生の大半を、やっちゃいけないことばかりし続ける人がいるし、そういう人は決して少なくない。

 

そういう人の多くは、世間的にはまじめな人と呼ばれることが多い。

 

そんなまじめな人の憐れな末路を示す話が次のツイート。

 

 

意志が大事とことばで言うことは簡単だが、意志を伴った行動とはどういうものかを上手に説明したり伝えたりすることはとても難しい。

 

最近ひょんな事で、それを簡単にできるかもしれないと思える話をラジオで聞いたので、その話をしてみたい。

 

 

 

NHKラジオ『すっぴん』番組案内

 

 

このラジオの中でされていた話がおもしろかったので紹介してみたい。

 

 

オノマトペとは

 

 

オノマトペとは、フランス語由来で擬声語を意味し、擬声語には擬音語と擬態語の二つがある。

 

擬音語とは「犬がワンワン」「ガラガラ崩れる」など動物の声や物音を表す。

 

擬態語とは、「お風呂でサッパリ」「誕生日プレゼントでビックリ」など、物事の様子や心情を表す。

 

 

そして、これらの中でも運動を円滑にしたり、大きな力を発揮しやすくするなど、体に働きかけるオノマトペを『スポーツオノマトペ』と藤野さんは命名し、その研究に取り組んでいる。

 

 

アスリートが競技中に声を出すのはなぜか?

 

声を出さないと、パフォーマンスが十分に発揮できないというのは今や当然の真実として認知されてるが、やり方を間違うと昔ながらのシゴキと映ってしまうだろう、というのは私の感想。

 

藤野さんは、ハンマー投げの室伏広治さんを研究対象にしていて、記録と声の出し方や声の周波数との間に関係があると言っている。

 

声の出が弱いときは、記録は全くダメ。

 

また、声を出そうと気持ちは準備出来ていても回転のタイミングが合わないと声が出ないと室伏さんは言ってるらしい。

 

姿勢やタイミングがずれると声の出が悪くなり、出る声の周波数も悪くなるというのがその理由だ。

 

 

卓球の選手も最近声を出す選手が増えているが、これは呼吸法が関係していて、テレビ等で見てると相手を威嚇してるように見えるが、あれは息をしっかり吸い込んでなければ出ない種類の声なので、威嚇と言うよりは自身がリラックスを得るための効果が高いらしい。

 

 

体が柔軟になる声の出し方

 

猫の鳴き声のように「ニャ〜〜」と言いながら体を曲げると、いつもより曲がるというのを実際にスタジオでやっていた。

 

「フニャフニャ」「クニャクニャ」「グニャグニャ」のように「ニャ」が付く音は、体の力を抜く作用があるというのは実験でエビデンスも確認されてるとのこと。

 

 

幼稚園児に跳び箱を跳ばせる声の出し方

 

 

幼稚園児が跳び箱を跳べないのは恐怖心があるから。

 

声と動作を連動させることを覚えさせ脳内のイメージを作り上げると、人間は声を出しながら恐怖を感じることはできないらしいので、声を出すことに集中させると跳び箱が跳べるようになるらしい。

 

その時のオノマトペが、

 

「さあ〜」「タン」「パッ」「トンっ」

 

「さあ〜」は、助走を勢いづかせるがこれでは勢いが乗らない子には「さあ〜〜〜〜」と言うように勧めると勢いがつくらしい。

 

「タン」はジャンプする時だが、できない子は片足でジャンプしようとするので、そう言うときは「タンタン」と教えると両足で踏み切るようになるらしい。

 

「パッ」は跳び箱に手をつくタイミングの音だが、この時に跳び箱の手前に手をついて跳べない子の場合は、「パッ〜〜」と教えると跳び箱の奥に手を持っていけるようになるらしい。

 

「トンっ」は着地で、この一連の動作を声を出すこととセットで覚えると恐怖感の克服がしやすいとのこと。

 

 

 

 

オノマトペは上手に使えると、行動を促す効果が高い。

 

頭では分かってるけどやる気にならないなんて言うのは、子供だけでなく大人にとっても大きなテーマだが、そういう時にオノマトペを活用できることは知らないと大損かもしれない。

 

過剰に意識し過ぎることが災いする場合は、脳内で行われる作業が裏目に出てるので、そのような場合は脳とのやりとりを遮断した方が良く、手っ取り早い遮断方法が声を出す(=音にする)ということだ。

 

 

脳科学者が「脳を活性化させる」と考えてることの多くは、実際に現場でやろうとしてる人々にとっては裏目にでることの方が多い。

 

 

運動の理屈を先に学んで体が動くわけではなく、実際体の動きを分析したら後付けの理屈が出来上がったというのが順番だ。

 

理屈を先に確認して行動しても上手くいかない場合は、理屈を排除して自分なりのオノマトペを作ることを考えた方が良いかもしれない。

 

オノマトペが成功する可能性が高い場合は、イメージトレーニングの出来が良いことを示している。

 

 

オノマトペで指導やアドバイスをすることはまだまだマイナーなので長嶋茂雄さんがバッティングのアドバイスで「球がビュッと来たらブンっとバットを振ってカーンと打てば良いんだよ」と言ったことが笑い話として語り継がれているのと同じような扱いを受けている。

 

一周遅れてるようで、実は一周先を行ってるのがオノマトペかもしれない。

 

幼児教育で顕著な効果が出てるようだが、むしろ大人にこそ必要なものかもしれない。

 

 

何事も、理屈よりも先に感覚的に捉えることが大事なのかもしれない。

 

 

 

 

ブログは、何の役に立つか!?

営業の現場で起きている変化について考え、その変化に有効に対応するために何が役立つだろうかと考えていたら、『そうだブログが役に立つ』と思えてきた。

 

そんな話を書いてみた。

 

 

 

世の中は交渉事で溢れている。

 

交渉してる(されてる)なんて思ってないことでも実際には交渉事だということはたくさんある。

 

 

交渉の場では、当事者は対等の関係のようで、実際には微妙な上下関係や有利不利の関係がある。

 

ビジネスであろうと遊ぶ事であろうと複数の人が関与する場では、意見の取りまとめや目的や目標の設定も交渉事に該当する。

 

ビジネスにおける営業の場での成約を巡る駆け引きは典型的な交渉事になるが、昔から上手く行く場合を4つのプロセスで説明することが多い。

 

  1. アプローチ
  2. デモンストレーション(=プレゼンテーション)
  3. クロージング
  4. 成約

 

 

アプローチは最初の出会いであり、自己紹介が中心になる。

 

デモンストレーションは、営業のためのQ&Aの場。

 

クロージングは、購入の意思の確認であり、購入にあたっての障害の排除の場。

 

以上を無難に処理できれば成約に至る。

 

 

上手く行く場合は問題にならないが、上手く行かなかった場合にはどのプロセスで失敗したのかが反省点になるが、その理由に勘違いが多いのだ。

 

売る側(営業する側)は、ほぼクロージングの失敗だと考えるのに対し、買う側(営業される側)にとってはアプローチの失敗に過ぎなかったという場合が多いという勘違いだ。

 

この勘違いのギャップは非常に奥が深い。

 

売る側は、失敗を販売テクニックの不足だと考えるのに対して、

 

買う側は、売る側の人間性やキャラクターを拒否していたからだ。

 

 

現代社会では、アプローチに関しては激変の途上にあるだろう。

 

昔ながらのやり方が通用してる業界もあれば、売り込みは一切受けないという会社も増えているだろうし、紹介以外は拒否するという会社も多いだろう。

 

そう考えると、これからはアプローチとデモンストレーションはセットで評価されることになるはずだし、すでにそうなっているだろう。

 

そして、この能力を全ての人が要求されるようになるはずだ。

 

と言うのは、次のような話があるからだ。

 

自社製品・商品を買わない人に、あなたはどう指導しますか?

 

 

自社の商品が好きじゃないけど売っているという人が増えているのだ。

 

あるいは、本音ではどれを選んでも大差ないと思っているのだ。

 

 

交渉事を上手に処理するためには、当事者双方の思いを理解することが重要になる。

 

自分の思いや立場だけをゴリ押ししてもまかり通らないのは当然だが、交渉に不慣れな者は相手の事情を受け入れることは敗北だと考える。

 

 

交渉が必要な場では、相手の気持ちや言い分を聞いた上で適度に自己主張もしなければいけない。

 

これって、ブログを書く際に要求されることとほぼ同じでは?、と思えてくる。

 

好きなことを自由に書いて良いのだが、自分らしさや自分の満足度も大切なので、何でも書けば良いわけではないし、書いたブログに対し一定の反応や評価を得たいと思えば、相手の存在をしっかり意識する必要が出てくる。

 

 

営業におけるアプローチの失敗をクロージングの失敗と思い込む気持ちは、ブログに例えると何に該当するだろうか?

 

 

ブログを書く場合、ブログの内容に関することには意識が向かうことは、営業する場合の商品に意識が向かうこととほぼ同じ。

 

商品への意識は、デモンストレーションやプレゼンテーションへ意識が過剰に集中することにつながる。

 

そのせいで、本来アプローチを大事にしなければいけないのに、デモンストレーションへ意識が向かい、デモンストレーションやプレゼンテーションは十分にクリア出来てると思うため、問題は次の段階のクロージングに移行してると勝手に思い込み、営業が失敗した場合にクロージングのミスだと勘違いするのだとすると、そしてブログでも同じことが起きているとするならば、ブログの内容と言うよりも、誰に向けて書かれているのかというアプローチのミスと言えるのかもしれない。

 

 

ブログでアプローチを意識すると、SEOに代表されるテクニックの不足が災いしてると解釈する間違いが起こるかもしれない。

 

これは、アプローチの失敗をクロージングの失敗と思い込むことによく似ている。

 

テクニックで劣ることは、世間で思われているほど致命的ではないかもしれない。

 

ブログで、アプローチが上手くいったか失敗したかは、結果で判断するしかないだろう。

 

しかし、ブログのメリットは試行錯誤が誰にも何の迷惑もかけないことにある。

 

そして、おもしろいことに変化に気付けるのはブログを書いてる本人だけなのだ。

 

 

 

営業の現場で試行錯誤の失敗を繰り返すことは自身の評価を下げることにつながるが、ブログだったら何の遠慮もしないで試行錯誤できる。

 

 

クロージングの問題だと思っていくら対策しても、本当はアプローチの問題だとしたら、全く無意味なことをしてることになる。

 

 

このような見方をすると、ブログは結果が出ることを目指すべきだろうと思う。

 

自己満足だから、結果は気にしなくて良いというのも一理あるように感じられるが、主義主張は変えずにほんの少しだけ意識を変えたことが違いにつながって、それが結果の違いにつながれば、すごいノウハウを手に入れることになる。

 

そんなノウハウは、自分の個性に根ざしたもので競争力の高いものになるだろう。

 

表面的に真似をしても、真似をした人の個性と合致しなければ決して良い結果は得られないだろう。

 

 

そういう意味では、スタイルをパクられることを恐れる必要もない。

 

 

ブログの運営が倦怠期に入っていると感じた方は是非試して欲しい。

 

 

誰のブログであっても、すごい可能性が隠れているはずだ!

 

気付いてないだけで、みんなサイコパス!?

得をしたいと考える人は、冷静に考えると必ずしも得だとは思えない行動を取ることがある。

 

 

以下は昔のわたしの場合の話。。

 

ガソリン価格が安いという理由で遠方のスタンドに給油に出かけることがあるが、走る距離と車の燃費を考えると単純には高く付くだけなのだ。

 

しかし、ドライブすることが目的だったら、少し遠回りになっても実際には安上がりとまでは言えなくても、トータルで楽しめてる時間が長い分だけ得をした気分になれたことを思い出す。

 

 

同様のことは、スーパーで安売りしてるからと言って、遠方のスーパーに買い物に行くことは損なのか得なのか?、にも当てはまる。

 

車で買い物に行けばガソリン代分を考慮に入れると微妙だったりするだろうが、自転車で行けば、いつもより長く乗る分だけ運動にもなると考えれば得した気持ちになれそうだ。

 

損か得かを考える場合、どこまで考慮に入れるかで答えが変わることがある。

 

最近、御朱印(帳)がブームになっている。

 

GoogleTrendsで直近5年の動きを見ると、

 

Google Trends『御朱印』過去5年

 

人気が着実に上昇し続けていたが、改元で急上昇したことが分かる。

 

御朱印とは、日本の神社や寺院で参拝者向けに押印される印章や印影で、手書きの文字が添えられてるものも多いが、入手したければ現地に赴く必要があるとともに、行けば必ず入手できるわけではないために、改元に伴う過熱したブームが御朱印の入手に関してあちらこちらでトラブルを生んだ。

 

 

 

 

御朱印を得ようと考えた場合、目的の神社や寺院が地元の徒歩圏にある人と宿泊を伴う移動が必要になる人とでは、その価値は大きく異なるだろう。

 

しかも、現地に行けば必ず入手できるわけでなければなおさらだ。

 

御朱印の価値とはどのように評価されるべきなのだろうか?

 

欲しがる人が多ければ、そして入手が困難であれば、自然と市場原理が働く。

 

 

 

市場原理が働けば、売る方も買う方も『損か得か』が関心事になる人が増えてくる。

 

 

『損か得か』には二種類ある。

 

当事者は自分一人で、自分の気持ち次第で答えは決まる場合が一つで、このような場合実際には損得がテーマというよりもモチベーションを上げるための暗示に近い。

 

もう一つは、自分以外の誰かが相手として当事者になる場合で、商売や取引と同じ構造になる。

 

商売や取引のような場合でも損得はギブアンドテイクのような双方向の譲り合いが成立するのが一般的だが、中にはあらゆる状況で常に得を得ることしか考えない人たちがいる。

 

そんな人たちは、サイコパスと呼ばれる。

 

 

 

 

損得が問われる世界では損は許されない。

 

そして、当事者が自分一人でなければ損をすることは負けることになる。

 

結果ばかりが求められる現代では、全ての人がサイコパス化せざるを得なくなる傾向が強い。

 

サイコパスにも、嫌々やってるサイコパスと筋金入りのサイコパスがいる。

 

筋金入りの本物のサイコパスは、相手の目つきや表情から、その人が置かれている状況を読み取る才能が際立っていると言われる。

 

 

サイコパスだらけになったということは、サイコパス同士の共食いが増えているということだ。

 

もちろん、ここで言う共食いは比喩で、意味としては利益を奪い合うというものだ。

 

 

ボーっと生きてると、共食いするサイコパスになるしか生きる道が無くなるのが現代。

 

少し考えた方が良いのは、独自のことをやってるつもりでも他人と同じことをやっていれば、結果として共食いになるということ。

 

共感や譲り合いを実際に行動で示せなければサイコパスと同じ。

 

 

さて、次のツイート意味分かりますか?

 

 

 

答えは、ツイートのリプにあります。

 

 

サイコパスを続けますか?

 

サイコパスをやめますか?

 

 

わたしもあなたも、今は多分サイコパス!