違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

マンガの功罪!

本音と建前の本音が強く現れるのがマンガの世界。

 

マンガの世界は分かりやすく、感情移入しやすいところが良い。

 

自分の気持ちに近ければ共感が強くなり、そのマンガの世界観にどっぷりとはまってしまいやすくなる。

 

マンガの世界観は男性と女性で大きく異なるが、男性の場合は少年、女性の場合は少女というジャンルで括られることが多く、テーマも特定のものに集中する。

 

少年マンガの3大テーマは「友情」「努力」「勝利」と言われ、時代錯誤と言われながらも『スポ根』は熱狂を演出することには欠かせないので、リアルな体育会系の雰囲気が色濃い組織では根強くスポ根が生き続けている。

 

そして日本人男性の考え方や行動に知らず知らずのうちに影響を及ぼしている。

 

スポ根は非効率だと頭では理解していても、ここ一番という時にはスポ根的な対応をしたり、他人に求めることがある。

 

この「スポ根」と「友情」や「努力」が混ざり合って「勝利」を目指そうとすると、パワハラをはじめとするハラスメントが顔を出すようになる。

 

不思議なことにスポ根を許容すると、これらのハラスメントも許容範囲に収まることが多くなる、内心では嫌であっても。

 

 

一方、少女マンガの3大テーマは「幸せ」「胸キュン」「オンリーワン」と言われ、現状や年齢に関係なく追い求めるものだと言われてる。

 

不倫や浮気にはまったり、恋愛系の詐欺に引っかかったりする話が後を絶たないのは、女性が自分に都合が良いように「幸せ」「胸キュン」「オンリーワン」を脳内で描くからだと言われてる。

 

女性をターゲットにしたビジネスや詐欺では、「共感」を得ることを大事にし、そのために女性の考え方や環境や境遇を「全肯定」することで「優しさ」を感じさせることを徹底する。

 

このような行動は、やれば効果があると分かっていてもできない男性はたくさんいる、だからこそやればできる一部の人が結果を出すのだ。

 

先日放送されたNHKのNスペ「半グレ」で、女性を風俗に送り込むために丁寧で戦略的な疑似恋愛が駆使されていたが、女性の側にマンガの世界をイメージするような心理が働いたのではないかと感じている。

 

 

少年マンガも少女マンガもマンガを読むことが好きな人でマンガの世界観にのめり込むような人達は、人間関係に期待することが増え、人間関係を大事にしたいと思っているだろう。

 

マンガの世界観にリアリティが高いほど理屈が強くなり、リアリティが低いほど夢やファンタジーが強くなる。

 

影響を受けているマンガの世界観によって思い描く人間関係も変化するだろう。

 

リアリティのある人間関係をイメージするのか、それとも夢やファンタジーで彩られた人間関係なのか、今やスポ根はリアリティが下がり夢やファンタジーの世界になりつつあるがまだまだブラックの温床だ。。

 

 

リアリティの高いマンガほどブラックやハラスメントを直接描き、夢やファンタジーはハマると自分に都合良く考える癖を付けるので巡り巡って詐欺の被害者になりやすくなる。

 

マンガ自体には罪は無いが、マンガが好きということは被害者になりやすいという意味で要注意だろう。

ジョーカーを引くように『半グレ』を選んでしまう被害者!

 

現代は競争社会だと言われる。

 

何を競争してるかと言うと、「選んでもらう」「選ばれる」「選ばせる」という競争だ。

 

選ばれなければゼロというのが競争社会の真実。

 

満点を取ることも0点を取ることも難しいテストの世界とは大違いで、競争社会では最も多いのが0点を取る人達だ。

 

競争社会では、選ばれなければ0点だが、選ばれたからと言って満点なわけではない。

 

実に不思議な世界観だが、これは『競争』ということばの言語明瞭だが意味不明なところに由来しそうだ。

 

競争ということばは、反対語があるのか無いのかが分かりにくいことも意味不明さを助長する。

 

ネット上やTwitter上を検索すると競争の反対語として上がってることばで「なるほど」と思えたことばに、

 

  • 自由

 

  • 創造

 

  • 独占

 

などがあった。

 

競争とは、

 

  1. 参加資格で縛る
  2. (参加資格を得た後は)ルールで縛る
  3. 審査基準で縛る

 

などのことによって成立するゲームだとすると、確かに「自由」ではないし、「創造」も制限されたものになりそうだし、「独占」とはそもそも競争原理が働かないから成立するので、いずれのことばも競争の反対語として頷ける。

 

ところで、競争が起きている現場では何が起きているのだろうか?

 

競争には二種類ある。

 

合法的な競争と非合法な競争。

 

合法的な競争の世界にはスポーツマンシップに似た「勝って驕らず、負けて腐らず」な価値観が機能する余地があるが、非合法な世界ではなんでもアリだ。

 

どちらの場合も競争で疲弊する時は、相手の顔色を伺っている時だ。

 

ルールや審査基準が厳格で明確な場合は、他の競争参加者の顔色を伺い、ルールや審査基準が明確でない場合は、他の競争参加者だけでなく審査者の顔色も伺うことになる。

 

 

 

非合法な世界では相手の顔色の伺い方も一味も二味も違った凄みを見せる、先日NHKで放送された『半グレ』。

 

 

 

 

 

以前から、結果を出す冷徹な経営者的な資質として重要なのが「サイコパス気質」だと心理学者や脳科学者が言っているが、その裾野が確実に広がっている。

 

 

サイコパス気質が競争を好み、自由や創造性を求めることは競争することに対するアンチテーゼなのかもしれない。

 

 

 

被害者は、なぜかジョーカーを引いてしまう(=選んでしまう)。

 

 

「選んでもらう」「選ばれる」「選ばせる」という判断がなされるということは、何を選ばないかを決めることでもある。

 

すべての発端が「選んでもらう」「選ばれる」「選ばせる」にあるとするならば、考えるべきは『選ばない』ということ。

 

選択の誤りは典型的な後悔の原因だが、多くの場合選択時に悪い予感を伴っている。

 

 

『選ばない』ことが一概に良いことだとは思わないが、『選ばない』という選択肢があることは決して忘れてはいけない!

 

『アメリカン・ドリーム』という所与性の喪失!

アメリカの大統領選にトランプさんが立候補していた2016年に見つけてその後ずっと気になってる記事がある。

 

この記事が書かれたのは2014年。

 

今のアメリカは、アメリカンドリームを感じさせたアメリカと同じなのだろうか?

アメリカの人々の日常的心象に非常に興味深い影響力と補足力を持ってきた「アメリカン・ドリーム」ですが、アメリカにおけるこの言葉の使用に近年顕著になってきたのが、ネガティブな言葉との組み合わせです。新聞・雑誌記事や書籍、オンライン上で「American Dream」という言葉を検索してみると、それに付随するのは「終焉(end)」や「衰退(decline)」、「絶望的な(hopeless)」や疑問符(?)等々です。

 

今もそのまま当てはまっているだろうか?

 

この記事を見てしばらくした頃、ビジネス界のアメリカン・ドリームの代表格のようなシリコンバレーの過酷な現状を記事にしたものを読んだことがある。

 

シリコンバレーでは、年収1000万円クラスだとまともな生活ができず、自分の家や部屋すら持てないホームレスがゴロゴロいるという話だった。

 

誇張されてる部分はあっても、景気が良いことが即物価の上昇につながると生活は過酷になるということは、日本のデフレがいかにありがたいかを感じさせるのに十分だった。

 

私の脳内ではアメリカン・ドリームというと、全く無名の新人がオーディションで見出され一躍スターになるようなことをイメージする。

 

以下はアメリカン・ドリームについて語っていてもアメリカの話ではなく、むしろ日本の話。

 

日本の芸能界にもこのようなオーディション形式の登龍門が昔はあって、審査がオープンに公開されていた頃があったことを覚えている。

 

オーディションという呼ばれ方をすると芸能界の雰囲気が漂うが、他にも入学や入社にあたっての面接やビジネスにおけるコンペやプレゼンもオーディションと同じだが、どれもいつの頃からか名ばかりのものになり、真に競うとというよりも出来レース的なものになってしまったように感じられる。

 

アメリカですらアメリカン・ドリームが遠くに感じられるようになったことと日本の状況はリンクしてるように感じられる。

 

 

吉本興業を巡るドタバタ劇が一向に終息に向かわずに、次々と出る芸人の不満があるかと思えば、強く不満を口にした芸人がすぐにトーンダウンしたり、直接の利害関係者以外も多様なビジネスと関連づけて経営論を語ったりし続けている。

 

本当に面白い芸人なんて私の目には10人から20人程度しかいないが、今回のドタバタで吉本興業だけで6000人もお抱え芸人がいると分かった。

 

つまり、芸人としての競争は過酷だろうが、芸人になることに関しては競争原理は働いていないのだ。

 

 

またお笑い以外の分野(歌舞伎などの世襲制は除く)では、有名人の二世や三世などばかりが目立つのも入り口で競争原理が働いてないことを強く感じさせる。

 

一方、京都アニメーションの放火事件をキッカケにアニメ業界の構造を少し知ったが、過酷でありながらもお笑い業界と違い、入り口である程度の選別がなされていることも分かった。

 

 

アメリカン・ドリームは入り口が過酷で、求める側には強い理想があり、応募する側は実力以上の運や偶然も味方にできて初めてアメリカン・ドリームとして機能する。

 

アメリカン・ドリームのように、デビューと同時に主役で花形というケースはほとんどなくなったが、役者の世界で言うともともとは脇役や悪役で出続けた人達が、意表を突いた演技で主役以上の存在感や人気を示したりすることは珍しくなくなっている。

 

分かりやすいので芸能界で説明したが、一般のごく普通の世界でも似たようなことは起きているだろう、今進行中なのは多様性。

 

競争原理が働かない世界(良く言うと安定した世界)では基本は誰がやっても大差ないので、持ち時間を無難に消化することだけが関心事になり、オーディションが機能せずに二世三世が跋扈したり、出来レースが展開されたりする。

 

アメリカン・ドリームが消えた世界で消えているのは競争原理なのかもしれない。

 

不思議なことに、皆自分が一生懸命競争してる気になっているが、よく考えると競争相手を具体的にうまく説明できないのではないだろうか。

 

 

あったはずのアメリカン・ドリーム、これからもあり続けるであろうと思っていたアメリカン・ドリームが消えかけていると言うことは所与性の喪失を意味し、そのことに多くの人が戸惑っているように感じられる。

 

大きいことである必要は無い、自分なりのアメリカン・ドリームを持てることは重要になるだろう。

 

新規客とリピーターどちらが大事か?

ビジネス論を語る世界では「リピーターを増やせ」「リピート顧客を重視しろ」という意見が圧倒的に多い。

 

ビジネス論がリピーターを評価するのは、顧客を獲得するためのコストが違うからで、一説では新規客の獲得コストはリピート客獲得の10倍などと言われている。

 

 

ビジネスの規模が大きくなると、シェア率が高くなると、発展を目指すにしても現状維持を目指すにしてもリピーターに頼るしかなくなる。

 

毎年2500万人以上が訪れるディズニーランドは、来場者の97%がリピーターだと言われているが、この規模を新規客で回すことは不可能だろう。

 

同様なことはスポーツ観戦にも当てはまりそうで、特にプロ野球にそれを感じる。

 

家族や友人同士で手作りのプラカードなどオリジナルの応援グッズを持参しているのは間違いなくリピーターだろう、こういう観戦客が大勢いる。

 

しかし、プロ野球界は深刻な課題を突きつけられている。

 

野球人口の減少だ。

 

子供の野球人口が減っていることは何年も前から指摘されていたし、テレビの視聴率も落ちているので地上波は中継を減らしているが、スタジアムの観客動員数は減っていないのだ。

 

各球団がコアなファンを大事にする運営を取るようになったことで、リピーターが増えたことで観客動員数が減っていないのだが、統計上はコアなファン自体も減少傾向にあることで、いつかは観客動員数も減少に転じるかもしれないことが課題なのだ。

 

このように、事業の規模が大きいものほどリピーターを増やさないと事業そのものが存続できなくなる。

 

その際には、新たな商品やサービスを打ち出すことが肝心になる。

 

 

いやでもリピートせざるを得ない仕組みづくりとして独占することを理想に描くが、シェアが増えるとアンチも増え自然発生的に対立軸が生まれるようになるので独占は絵に書いた餅になる。

 

そう考えると、GAFAはどこまでいっても超巨大企業ではあり続けても独占はできないだろう。

 

 

 

ところで、リピートする人達がリピートする理由とはなんだろうか?

 

自分自身の内側に満足感や納得感があるから「もう一回」となり、同じループを繰り返すというのは誰でもイメージしやすいだろう、このパターン以外にどんなものがあるだろうか?

 

世間の評判は良いのに自分は良いと思えなかったので、その理由を知りたくてリピートするなんて意見を見たが、スポーツの試合などでは見た試合の展開によってガッカリするものと感動するものがあったりする。

 

たまたま初めて見た試合が、ルールもよく理解せずに見たら、あるいは試合展開が単調で盛り上がりに欠けていたら、もし客席の近くにマナーの悪い客がいたら、たぶんリピートしたいとは思わなくなるかもしれない。

 

そういう気持ちになっている時に、「もう一回見ようよ」と強く誘ってくれる人がいたら、あるいは試合の楽しみ方をルールを交えて解説する友人知人や情報に出くわしたら、もう一度見てみようかとリピートするかもしれない。

 

リピートするかしないかは自分の意思で決定するが、その意思にはさまざまな情報が介入してくる。

 

 

規模の大きな事業の場合は、リピーターを作ることは非常に重要だと分かるが、小さな規模だと事情が変わる場合がある。

 

おもしろい本を読んだ。

 

 

 

小さな事業規模に携わってる方には刺さることばがたくさんあるはずだ。

 

商品は1種類だけ、1本13cmのガトーショコラを3000円という高額でのみ販売し年商3億円を達成している著者は、実際にはリピート客が多いことを十分に理解し大切にした上で、エネルギーは新規顧客のために注いでいる。

 

リピート顧客に「思い出してもらう努力」をするよりも、新規顧客に「知ってもらう努力」の方がはるかに大事だと考えているその理由は、「ガトーショコラそのものがあまり知られていない」からと言っていて、リピート客はいないという前提で常に事業展開を考えているからなのだ。

 

これは、東京だから成り立つ考えとも言えるが、従来の新規顧客重視戦略の多くは、商品やサービスにリピートする魅力が無いからということが前提だったり、旅行客だけをターゲットにしたりというものが多かったのに対し、リピートする魅力に溢れていながらもリピートに頼らないというのは志が数段上を行ってるように感じられた。

 

この本は読む価値があると思う。

 

 

一般的に、リピーターを重視すると言えば極端な場合「一見さんお断り」のような敷居の高さを印象づけ、新規顧客重視と言えば「一度来た客は(うんざりして)二度と来ない」ような印象があり、両立させるものと言うよりも対立する考え方として捉えらることが多い。

 

ところで、みなさんはリピートするものを持っているだろうか?

 

リピートしてるけど惰性で続いているだけだったりしてないだろうか?

 

売ってる方は、リピートの鍵は商品やサービスの質だと感じるかもしれないが、買ってる方は人間関係を含めて商品やサービスとは無関係な理由で選んでいることも多いはずだ。

 

解約の手続きがめんどくさいからリピートしたり継続してるものが意外と多かったりしないだろうか。

 

失敗するかもしれない新たなものよりは、すでに知ってるものの方が安心できるからリピートしてるだけかもしれない。

 

最近のビジネスは、リピートさせるためにあの手この手を尽くしているが、決して満足度は高くないものが増えている。

 

通販が増えたからかもしれないが、丁寧な挨拶を兼ねたリピート促進の営業案内をよく目にする。

 

これらの手法もすでに飽きられ始めてるような気がするのは、きわめて予定調和を感じさせるからだ。

 

リピート客をつなぎとめるためにはまだまだ有効でも、新規客の獲得には役不足を感じる。

 

 

新規客の場合でも、満足度の高さよりも失敗の無さの方が重要なのかもしれない。

 

未知のものに対して失敗の無さを感じさせるためには何が必要だろうか?

 

世間の評判や、実際の利用者のレビューのような、広告宣伝とは違った情報かもしれない。

 

安いものが売れる一方で、高額のブランド品やオーダーメイドも売れている、それぞれ購買する層は違うかもしれないが、持ってる価値観は似てる気がする。

 

その価値観は『失敗したくない』で、その基準が『コストパフォーマンス』。

 

コストパフォーマンスのことを略して『コスパ』と呼ぶ場合は、単に価格が安いモノ、お得感があるモノ、あるいはたまにはちょっと贅沢を楽しむ、を指しているような気がして新規客が選択する場合の基準や尺度になることが多い。

 

リピートする人達は、『コスパ』以上の『コストパフォーマンス』を感じてるはずで、高額でも一生モノだと思えれば、あるいは価格以上の満足や納得が得られるということで評価してるはず。

 

コストパフォーマンスが確立してる商品やブランドは、自分自身が納得するだけでなく他人を納得させる力も持つことが多い。

 

ただし、現代人はブランドを過度に信頼しながらも移り気が強いので、常に『コスパ』と『コストパフォーマンス』を天秤にかけている。

 

満足感や納得感の持続時間は思ってる以上に短いかもしれない。

 

新規客とリピート客のどちらが重要かを考えていると、『コスパ』と『コストパフォーマンス』のどちらを重視するかに行き着いたことが我ながら興味深い。

 

商品やサービスを企画する際は、作り手としての思いを込めることよりもお客の目にどう映るかを意識する方が大事だが、これはとても難易度が高いのだが、そんな時は「あれが必要、これが必要」と無い物ねだりをしがちだが、そんな時ほど「余計なことをやめる」ということがヒントになるのかもしれない。

 

 

こんなところにも断捨離スピリットが影響を及ぼしてることがおもしろい。

 

あなたの敵は誰?

世の中にはさまざまな対立軸があるが、いかにも今時らしい出来事があった。

 

 

必ずしも相手のことが嫌いなわけではないのに闘うのが格闘技だが、おそらく闘ってる間に嫌いという感情が盛り上がることがあっても何の不思議もないが、同じことは格闘技ファンにも当てはまるということだろう。

 

サッカーや野球でもファン同士がもめるということは決して珍しくないが、その場合は試合中や試合直後にスタジアムの近くで発生したり、試合の中継を見ながら(聞きながら)飲んでいたりなどリアルな場が舞台になるが、上記の出来事はバーチャルな場で盛り上がった二人がわざわざリアルな場を設けてバトルをしたところに今時が感じられた。

 

 

 

対立軸が生まれる(=設定される)と、自然と敵と味方に分かれることになる。

 

昔から、考え方の違いが政治思想にまでつながり対立することとして「右派」「左派」というものがある。

 

次のツイートはメディアに関する右派と左派を分かりやすく示したものだ。

 

 

同じネタを扱っても微妙に記事の内容が違うことがあるのは、対立軸が違うと真実の捉え方が変わることを示している。

 

選挙が行われる政治の世界では、もともとは掲げる理想の違いで対立していたが、21世紀に入ると理想ではなく『人気』を競い対立するようになった、この現象はポピュリズムと呼ばれる。

 

 

ポピュリズムは敵を求め、敵がいることで求心力が生まれる。

 

ざっくり言うと、右派は『愛国者』という内側(内向き)の人達を求め、外側にいる人達や少数派を敵とみなす事が多い。

 

左派は、ポピュリズムという観点でいうと超富裕層や支配者層を敵とみなし、一般的に言われる弱者や少数派を集め一体化させることで敵と戦おうとする。

 

戦争や自然災害を想像すると、すべての人が仲良くできることが望ましいと誰もが考えるのに、日常生活における経済行為や趣味ですら多くの人達が競争しあってるので、知らず識らずのうちに敵やライバルを設定することで自己を確立しようとしている。

 

自分自身が持っている価値観、人生を通して様々な経験を経ることで身に付けた価値観に疑問を持つことは少ないかもしれないが、自分自身の経験だと思っていることの中にはかなり多くのたまたま接しただけの情報というものがあるということが想像できる。

 

こういうことも広い意味での『情報に振り回される』ということかもしれないと思えてくる。

 

情報は広く求めるほうが良いのか、それとも絞り込んだほうが良いのか?

 

広く求めるにしても絞り込むにしても、良いやり方と悪いやり方があるだろうし、もしかしたらただの結果論としてしか判断できないのかもしれない。

 

このようなことを考えていたら、ビジネスの世界では「リピート客を大事にせよ」という話が多いが、リピート客を大事にするとは情報の絞り込みを意味することに似てるなと感じ、だとすると広く情報を求めることは新規顧客を追い求めることに思えてくる。

 

次は、新規顧客とリピート客について考えてみたい。

 

人の噂は一週間から十日!

『人の噂も七十五日』ということわざがある。

 

うわさ話なんてせいぜい七十五日程度で忘れ去られるから気に留める必要はないという意味で、小さなことにクヨクヨするなと言う意味で使われている。

 

その一方で、世の中には決して忘れずに後世に語り継がれなければいけないとされるされることがある。

 

戦争の悲惨さや日本の場合だと原爆の恐ろしさなどもある。

 

戦争と同じ位置に大規模自然災害も挙げられるだろう。

 

GoogleTrends で東日本大震災を20111月1日以降で見てみると、

 

GoogleTrends 「東日本大震災」

 

震災から8年が経過してるが毎年3月に反応が上がるところを見るとまだ地震の恐怖は語り継がれていると言えるだろうが、次の同規模の地震まで語り継がれる必要があるとすれば400年〜600年語り継がれなければいけないのだ。

 

ところで、東日本大震災は地震というよりも津波の恐怖の方がインパクトが大きかったことがGoogleTrendsで感じられた。

 

GoogleTrends 「津波」「東日本大震災」

 

直近の出来事に目を向けると、この一週間は大きな話題が多かった。

 

京都アニメーションでの放火殺人事件は、海外の主要メディアでも取り上げられたほどだった、事件の発生は7月18日。

 

大騒動になっている吉本興業だが、そのキッカケは宮迫&亮の記者会見で、行われたのは7月20日。

 

どちらの話題もSNSや報道ではまだ活発に取り上げられているので風化には程遠いイメージがある。

 

GoogleTrendsで「京都アニメーション」「吉本興業」を見てみると、

 

GoogleTrends 「京都アニメーション」「吉本興業」

 

まだまだ現在進行系で盛り上がっている話題かと思いきや、世間の反応はすでにフェイドアウトを感じさせる動きを見せている。

 

今年の5月28日に発生した川崎市登戸での殺傷事件は、多くの人の記憶には留められたと思うが、GoogleTrendsで調べてみた。

 

事件を示す「川崎」「登戸」「殺傷事件」「殺害」など多様なワードを組み合わせて比較した中で最も大きな反応が得られたのが「カリタス」だった。

 

 

GoogleTrends 「カリタス」

 

事件の前日5月27日から1ヶ月の検索状況だが、ピークを100として6月7日以降は1未満の反応になっている。

 

『人の噂も七十五日』と言われた時代はとうに終わり、現代では噂の持続期間は一週間から十日に短縮してると言えそうだ。

 

ただ昔との大きな違いは、昔は七十五日経てば忘れてもらえていたが、現代は過去がタグ付けされ検索可能になっているので、話題としては持続しなくても、いつまで経っても忘れてもらえなくなる。

 

悪いことで名前が晒されると、たとえそれが間違いであっても取り返しがつかないことになる。

 

話題性の持続期間はどんどん短くなりそうなのに対し、軽率なミスは取り返しのつかない一生かけて償う十字架のようになるのかもしれない。

吉本興業の社長会見で感じた『ブラック』!

吉本興業を舞台にしたドタバタ劇は、典型的な芸能案件としてお茶の間で話題になっている。

 

登場人物の多くが有名人で、本来黒子であるはずの経営陣にもテレビのバラエティ番組に出たことがある人がいるくらいなので、興味や関心がある人にとっては事実関係を知りたいということ以上に感情移入する要素が多い。

 

この事件は、芸能案件である以上に典型的なブラック企業案件でもあるのだが、ブラック企業という切り口ではあまり捉えられてないようなので、ブラック企業という観点で語ってみたい。

 

私の中で「ああ、これはブラック企業案件なんだな」と思えたのは岡本社長の記者会見を見てからだ。

 

最初は許容範囲だった、自らは辞任せずに減俸に留めたことも事情を直接知ってる者が改革を最後まで成し遂げるためと見えたからだ。

 

しかし、質疑応答で馬脚を露わすことになった。

 

ちなみに、今回の出来事をブラック企業の案件として捉えた場合、他のブラック案件との最大の違いはマスコミの取材が入り逐一世間に公開されたことであり、その報道を見た人の多くがにわか評論家になったことだ。

 

ブラックとしてマスコミや世間の注目を集めた件としては、電通の高橋まつりさんの事件があるが、こちらは命が失われているが、今回の吉本案件は興味本位のゴシップ案件に過ぎない。

 

ブラックは、多数の目に晒されることを嫌がるのだ。

 

ましてや評論の対象になるなどもっての外なのだ。

 

 

一般論として、どんな業界でも、どんな企業でも、独自の文化というものが自然に醸成され、その環境にどっぷり浸かると少しズレた感覚が自然と身に付くことがある。

 

だから、「業界の常識は世間の非常識」、「会社の常識は世間の非常識」などと言われるようになる。

 

 

一連の吉本案件はマスコミも世間も大注目したので、多数の立場での常識と非常識のズレがぶつかり合って、しかも話題として難易度は低いので、大きな話題になったように感じられる。

 

逆に言うと、マスコミが取り上げなければ、今回の件でいうと最初の闇営業の暴露記事が無ければ何事も起きなかったのだ。

 

 

当初、宮迫&亮の両名は自分達は悪いことはしてないと思っていたから、そのように振る舞っていたが、やがて自分達の思い込みが間違いであることに気付いた。

 

宮迫&亮と吉本興業の考えがズレ始めるのはここから。

 

宮迫&亮は間違いを訂正し謝罪したいと考えたのに対し、吉本興業は「今さら訂正できるか(怒)」と考えたのだ。

 

不都合な真実は隠したいということが、ブラックの最初の一歩になるような気がする。

 

一つ隠すと次から次に隠したりごまかしたりを繰り返すことになるので、途中から辻褄を合わせるための訂正等できなくなるのだ。

 

 

「やっぱり訂正できません」ということが、吉本興業の社長会見の質疑応答で露呈していたのだ。

 

準備不足を指摘する声も多いが、公開の場では360度全方位へ対応できなければいけないので、間違いを認めない限り辻褄は合わせられないのだ。

 

翻って、ブラック企業やブラック経営者は真に公開の場を嫌がると言えるだろう。

 

360度全方位からの問いに対して、知っていることは知っているとおりに、知らないことは知らないと答えられる人がどれだけいるだろうか?

 

吉本興業の岡本社長の記者会見を見ながらイライラした人はとても多かったと思うが、そんな岡本社長と自分自身がダブって見えた人も大勢いるかもしれない、また身近な誰かを思い浮かべた人もたくさんいるだろう。

 

岡本社長を見ながら、こんな日本人たくさんいるよな〜と思っていた。

 

よしもとの芸人やマネージャー時代を知る人によると、日常の岡本社長は高圧的で恫喝的なしゃべりをする人だったらしい。

 

自分に都合良くものごとを進めることができた背景には武器としての「業界の常識」があっただろうが、それが通用しない全方位対応を余儀なくされると途端に通用しなくなったのが記者会見の姿だ。

 

自分に都合良くものごとを考えて実行するということは、ビジネスや法律や政治の世界で盛んに展開されているが、この「自分に都合良く」という考え方こそがブラックだと記者会見は教えてくれた気がする。

 

 

では、どう考え行動すれば良いのかが気になるが、それはまた改めて考えたい。