違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

リアクションと脊髄反射の違い!

何かについて考えようと思う場合、例えば子供の頃の夏休みの自由研究を思い出すと、テーマは自分の内側から探すことが多かった。

 

何かをしなければいけない時、子供だったらほぼ間違いなく自分自身が何をしたいかを考える。

 

自分の内側に無いものには興味を持てないのが子供だからだ、こういう子供の特性は今も昔も変わらないのだろうか、それとも時代に合わせて変化してるのだろうか?

 

しかし、ある程度以上大人になると「自由に課題を選んで取り組め」と言われたら、自分がやりたいこという動機以外にさまざまな理屈や打算を持ち込み出すようになる。

 

  • 他人とテーマが被らないように

 

  • それなりに体裁が取り繕えるように

 

  • より高い評価が狙えるように

 

 

このようなことが関心事になると、自分のやりたいことよりも、他人がやってる事や、やろうとしてる事の方が気になり出す。

 

逆に言うと、大人になると心底やりたい事は案外少ないのかもしれない。

 

『子供は動くものに興味を持ち、大人は動かないものに興味を持つ、椅子に興味を持つようになったら立派な老人だ』という話を聞いたことがある。

 

動かないものに興味を持つ事が大人になることならば、大人の行動は能動的と言うよりも受動的なものにならざるを得なくなるのはしょうがない。

 

だから、自由に好きなことやって良いよと言われても、他人がどのように行動するのかを気にしてしまう、何だか典型的な日本人に思えてくる。

 

日本人て大人なんだなと改めて感じるが、当然良い意味ではない。

 

結果、日本人的な大人は他人の出方を見て自分の行動を決めるという『リアクション型』の行動を取る人が多くなる。

 

リアクション型の行動は、改良したりアレンジを加えることには効果を発揮するが、オリジナリティを創出する事は苦手だ。

 

わたしがブログを書いていても自分自身にそう感じることは多い。

 

本当に書きたくて書いているというよりは、書けるネタを探して、そのネタにリアクションをしてることが多い。

 

ブログを書き始めたのは2016年の8月からだが、その年の春から今年はブログを始めるぞと思い練習をし始めた。

 

練習のテーマに選んだのは、『乙武洋匡さんの五股不倫』という当時大盛り上がりの話題だった。

 

この話題はもちろん大炎上になったのだが、火に油を注いだのは、被害者である奥さんに謝罪させたことだった。

 

当時この話題に接した私は、この話題だったら書くことなんて山ほどあるだろうと書いてみようとしたが、何も書けないのだ。

 

書くことはいっぱいあると思っているのに、書き出しのことばすら出てこない。

 

しょうがないので、他人が書いた乙武さんの行動を非難したブログをいくつも読んだが、「これだよ、これを書きたかったんだけどな〜」という感想の連続と、「俺が書いたってこれ以上には書けないしな〜」という思いの連続だった。

 

その後も、折に触れてこれだったら書けそうだと思える世間の出来事にリアクションを試みたが、なんだかしっくりこないの連続だった。

 

そうこうしてるうちに夏になり、今年中にブログを始めるのは無理っぽいなと思い始めた頃に、ふと春の乙武さんの出来事を思い出して気付いたことがあった。

 

五股不倫が発覚した乙武さんの話題にリアクションしてるつもりだったが、実は正義を振りかざす脊髄反射をしてただけだったんではないかということに。

 

そこで思い立ったのが、乙武さんの行動を正当化し援護することはできないだろうかという発想だった。

 

そうすると、意外と書けるぞという気になってきた。

 

ブログのタイトルを『違う見方』としたのは、その時の想いを表現したからで、我ながら上出来だと思っている。

 

 

この経験を踏まえての反省は、リアクションしてるつもりなのに意見や考えがまとまらない時は脊髄反射をしてることが多いということだ。

 

 

脊髄反射をする時は、善(=正義)vs悪(=間違い)のように二項対立でものごとを見てる時。

 

しかし、世の中で起きる出来事は実際には無限のグラデーションを描いている。

 

 

脊髄反射を止めたい場合は、脊髄反射してる感情の正反対を正当化することを考えると良いだろう。

『ダメ社長』から学ぶこと!

日本が衰退するのは日本企業の社長の器に問題があるからではないかとふと思えてきた。

 

今年になって肝心な時に社長の頼りなさが露呈する出来事が頻発しているような気がする。

 

たまたま話題になってるだけなのか?

 

個別の出来事だと思って見てると見過ごしそうだが日本企業全体に関係する伝染病を患ってるような状態なのではないだろうか?

 

2019年に入ってからの不祥事の中から経営者や現場のトップにいる人の頼りなさが露呈した出来事を集めてみた。

 

 

このような事件は株価に影響することが多いのだが、

 

 

この程度のことでは株式市場が動揺しないということは、表沙汰になることが少ないだけで珍しいことではないからなのかもしれない。

 

 

同様の出来事は空の上でも起きていた。

 

 

たくさん載せてもしょうがないが、全日空及び全日空系列は機長や副機長の飲酒発覚が実に多いことは検索するだけで分かる。

 

2019年に入ってからと絞り込んでると出てくるのは全日空ばかりだが日本航空で飲酒問題が発生してないわけではない。

 

 

以上は、経営者ではなく現場のトップの話だが、経営のトップの不祥事としては2018年の後半から2019年の前半は日産自動車のカルロスゴーン氏が不明朗な多額の報酬や経費を巡って日本とフランスの外交問題にまで発展しながら糾弾されていた。

 

ゴーン氏は日産の業績を回復させたことが大きく評価されていたが、その回復が過酷なリストラに依存していたからと考える人々からはあまり評価されていなかったのに報酬や経費を使い放題なのが糾弾であり解任の動機となっていた。

 

しかし、ゴーン氏が去った日産を率いた西川社長が取った手法が、

 

 

一体何を学んでいたのかと言われてもしょうがないかもしれない。

 

日産のリストラ話も最近の話だが、この話以上に経営者のダメぶりを示す出来事が立て続けに起きている。

 

吉本興業であり、セブンイレブンの7payであり、日本郵便のかんぽ生命の売り方で発覚した社長対応のお粗末さであり、誠意の無さの露呈だ。

 

吉本興業の岡本社長は多くの人がテレビを通じて見ただろうからあえて触れる必要はないだろう。

 

これらの会社の社長の受け応えに共通してるのが下記の二つのツイートに書かれてること。

 

 

 

社長をはじめとする経営陣や現場のトップの資質が著しく低下してるのかもしれない、一部の会社でたまたま起きてるだけの事とは思えなくなる。

 

日本全体に蔓延っている“空気”を如実に表しているのかもしれない。

 

ここで取り上げた話題の場合、多くの人々は被害を受ける側になることが多いかもしれないが、このような“空気”の影響をすべての人が受けてるとすればいつ加害者側に回るか分かったものではない。

 

トップにいる人ですらおかしな振る舞いをするというよりも、トップにいるからおかしなことをすると思って心の準備をした方が良いかもしれない。

 

ダメ社長が起こすおかしな出来事を見た場合は、「人のふり見て我がふり直せ」の気持ちが大事になる。

 

 

『少し残念』という美徳!

どんな人から影響を受けているか?

 

この問いには様々な答えがあって当然だし、模範回答などもちろん無い。

 

代表的なものを箇条書きで上げると、

 

  • 親兄弟や血縁関係のある身内

 

  • リアルな知り合いとしての友人知人や学校の先生や職場の同僚や上司

 

  • メディアの向こう側にいる著名人や有名人(ジャンル問わず)

 

以上で上げたものは直接知ってる人であり、情報として間接的に知ってる実在の人物。

 

これ以外に、

 

  • すでに他界していて実在しない歴史上の人物

 

なども該当することがあるだろう。

 

すでに実在しない人物から影響を受ける場合の決め手は、その人物がどのように描かれた情報に接したかだ。

 

情報を発信する側がどのようなキャラクターを与えて描いていたか、事実関係にどのような演出や誇張が施されているかで与える印象が異なるので、情報の受け手が受ける印象にも影響を及ぼすはずだ。

 

ここまでは、実際に存在したリアルな人物に影響を受けることがあるという話だが、現代では架空の人物から影響を受けることも増えているのだ。

 

マンガやアニメやゲームなど、キャラクターを与えられた人物がバーチャルな世界で活躍するストーリーが無数にあり、エンターテインメントの世界であり架空の世界だと分かっていながらも、その世界観に感情移入し影響を受けることが増えている。

 

また、現実に存在してる世界とバーチャルな世界の中間にアイドルというジャンルが存在していて、しかも大人数のグループが増えたことで分散しがちな影響力をひとまとめにする力を持つようになっている。

 

マンガやアニメやゲームやアイドルが好きな人々(=ファン)は、消費の牽引力が高いので常に商業的にターゲットにされるが、それはマンガやアニメやゲームやアイドルが如何に大きな影響力を持っているかであり、ファンが如何に影響を受けているかを示している。

 

ファンの深層心理には完全無欠な理想の実現を望む気持ちがあるが、実際に惹かれるのは完璧なようで「少し残念」なところも持ち合わせてるキャラクターだ、こういうのも「萌え」の一種かもしれない。

 

影響を受けるときには強い感情移入が働くが、完全無欠なキャラクターには感情移入せず、「少し残念」なところがあることで自分でも近づけるかもしれないと気持ちが動きやすくなるのだろう。

 

愛される「少し残念」は決して欠点ではなく、自分にも「あるある」「そうそう」と当てはまりそうな事のこと。

 

 

一方、リアルな人間関係の中では「少し残念」を通り越した「残念だらけ」の人ばかりが目立ってしまう。

 

「少し残念」が活きるのは一見完璧な人の場合だが、こういう話をすると「ああ、それ俺のことだ」と思う人が出てくるもので、わたしの周りもいるが、彼の口癖は「俺っていつまでも少年の心を忘れない男なんだ」で、その口からはいつもセクハラが飛び出している。

 

 

「少し残念」は美徳だが、「かなり残念」は悪徳。

 

 

自称「少し残念」は、「かなり残念」な場合がほとんどだ。

 

夏バテをなめてはいけない!

全国的に典型的な夏の始まりとは違った趣で2019年の夏は始まった所が多そうだが、7月も最終日になると全国的に猛暑、酷暑の夏となっているようだ。

 

昭和の頃は楽しい季節だった夏は、21世紀になると厳しい季節の趣が強くなっていったのは決して気温の上昇のせいだけではなさそうな気がする。

 

気温の上昇を含めて、心と体に悪影響を及ぼす要素はざっくりとストレスと呼ばれる。

 

GoogleTrendsでストレスを検索可能な2004年以降で見ると、順調に増えていることが分かる。

 

GoogleTreds「ストレス」2004年以降のグラフ

 

今ではすっかり日常会話の用語としても定着したストレスだが、個人的にはストレスが最も猛威を振るうのが夏だと感じている。

 

歴史を振り返ると、人間を含めて生き物にとって大敵だったのは寒さだったが、厳しい暑さも大敵となる。

 

日本の夏のように高い湿度を伴った高温は、直接的には体の表面を攻撃してくるが、結果的にやられてしまうのは体の内側になる。

 

汗をかき過ぎることで身体に必要な水分の不足を招き、そのことが血流に悪影響を及ぼし高血圧を促進し結果的に内臓機能にダメージを与えることが増える。

 

冷たい飲み物を摂取することも内臓を弱らせるが、火照った身体を冷やすためには冷たい飲み物が必要な場合もあるのでややこしくなる。

 

暑さや湿度や食べ物や飲み物を意識すれば良いだけだったら単純な自己管理であり体調管理だが、現代社会には自己管理の範囲を超えてのしかかってくるストレスがある。

 

ストレスの代表は人間関係やその人間関係から生じるプレッシャーだったりだが、プレッシャーの中には自己実現のために自分で自分に課すプレッシャーもある。

 

ストレスの多くは気持ちの踏ん切りさえ付けることができれば捨てたり、投げ出したりできるのだが、そのことについて考えることもストレスになる場合がある。

 

弱った内臓機能とこれらのストレスが合わさるとダブルパンチで効いてくる。

 

夏の体調不良は夏バテと一括りにされることが多いが、あまりにも普段との違いを感じるならば医者に見てもらった方が良いだろう。

 

ヤブ医者だったらどうしようという心配もあるだろうが、今時は採血し血液検査をするから極端に変なことは起きない。

 

最もやってはいけないことは、症状に合いそうな市販の薬を何種類も買って使ったりすることだ。

 

薬は間違って使うと、弱った内臓にトドメを刺すことすらある。

 

 

夏になると思い出すわたしの反省がある。

 

本当の原因は何だったのか結局分からずじまいだが、5年前の夏、勝手に夏バテだと思い様々な薬を飲み、すぐには病院に行かず秋まで待って体調が回復しないので病院に行ったら、腎臓が一つ死んでるかもしれないと言われた。

 

腎臓が二つとも正常に機能してる状態を100だとすると、腎臓1個では30の能力しか発揮できない、そしてその機能が13になると人工透析になると言われた。

 

父を人工透析で亡くしているので透析生活の大変さはよく知っている。

 

 

幸い、死んだかに見えた腎臓は生きていて、回復は無理だろうと言われたがゆっくり少しづつ改善している。

 

 

5年前の夏、夏バテだと感じた疲労感はおそらく当時の仕事のストレスのせいだと思っている。

 

ストレスをバカにしてはいけない。

 

ついつい頑張る癖がある人にとって、日本の夏は要注意だ。

 

一時は透析予備軍にカウントされていたわたしは透析に備えて腕の血管を守るために、現在でも採血は手の甲の血管で行なっている。

 

マンガの功罪!

本音と建前の本音が強く現れるのがマンガの世界。

 

マンガの世界は分かりやすく、感情移入しやすいところが良い。

 

自分の気持ちに近ければ共感が強くなり、そのマンガの世界観にどっぷりとはまってしまいやすくなる。

 

マンガの世界観は男性と女性で大きく異なるが、男性の場合は少年、女性の場合は少女というジャンルで括られることが多く、テーマも特定のものに集中する。

 

少年マンガの3大テーマは「友情」「努力」「勝利」と言われ、時代錯誤と言われながらも『スポ根』は熱狂を演出することには欠かせないので、リアルな体育会系の雰囲気が色濃い組織では根強くスポ根が生き続けている。

 

そして日本人男性の考え方や行動に知らず知らずのうちに影響を及ぼしている。

 

スポ根は非効率だと頭では理解していても、ここ一番という時にはスポ根的な対応をしたり、他人に求めることがある。

 

この「スポ根」と「友情」や「努力」が混ざり合って「勝利」を目指そうとすると、パワハラをはじめとするハラスメントが顔を出すようになる。

 

不思議なことにスポ根を許容すると、これらのハラスメントも許容範囲に収まることが多くなる、内心では嫌であっても。

 

 

一方、少女マンガの3大テーマは「幸せ」「胸キュン」「オンリーワン」と言われ、現状や年齢に関係なく追い求めるものだと言われてる。

 

不倫や浮気にはまったり、恋愛系の詐欺に引っかかったりする話が後を絶たないのは、女性が自分に都合が良いように「幸せ」「胸キュン」「オンリーワン」を脳内で描くからだと言われてる。

 

女性をターゲットにしたビジネスや詐欺では、「共感」を得ることを大事にし、そのために女性の考え方や環境や境遇を「全肯定」することで「優しさ」を感じさせることを徹底する。

 

このような行動は、やれば効果があると分かっていてもできない男性はたくさんいる、だからこそやればできる一部の人が結果を出すのだ。

 

先日放送されたNHKのNスペ「半グレ」で、女性を風俗に送り込むために丁寧で戦略的な疑似恋愛が駆使されていたが、女性の側にマンガの世界をイメージするような心理が働いたのではないかと感じている。

 

 

少年マンガも少女マンガもマンガを読むことが好きな人でマンガの世界観にのめり込むような人達は、人間関係に期待することが増え、人間関係を大事にしたいと思っているだろう。

 

マンガの世界観にリアリティが高いほど理屈が強くなり、リアリティが低いほど夢やファンタジーが強くなる。

 

影響を受けているマンガの世界観によって思い描く人間関係も変化するだろう。

 

リアリティのある人間関係をイメージするのか、それとも夢やファンタジーで彩られた人間関係なのか、今やスポ根はリアリティが下がり夢やファンタジーの世界になりつつあるがまだまだブラックの温床だ。。

 

 

リアリティの高いマンガほどブラックやハラスメントを直接描き、夢やファンタジーはハマると自分に都合良く考える癖を付けるので巡り巡って詐欺の被害者になりやすくなる。

 

マンガ自体には罪は無いが、マンガが好きということは被害者になりやすいという意味で要注意だろう。

ジョーカーを引くように『半グレ』を選んでしまう被害者!

 

現代は競争社会だと言われる。

 

何を競争してるかと言うと、「選んでもらう」「選ばれる」「選ばせる」という競争だ。

 

選ばれなければゼロというのが競争社会の真実。

 

満点を取ることも0点を取ることも難しいテストの世界とは大違いで、競争社会では最も多いのが0点を取る人達だ。

 

競争社会では、選ばれなければ0点だが、選ばれたからと言って満点なわけではない。

 

実に不思議な世界観だが、これは『競争』ということばの言語明瞭だが意味不明なところに由来しそうだ。

 

競争ということばは、反対語があるのか無いのかが分かりにくいことも意味不明さを助長する。

 

ネット上やTwitter上を検索すると競争の反対語として上がってることばで「なるほど」と思えたことばに、

 

  • 自由

 

  • 創造

 

  • 独占

 

などがあった。

 

競争とは、

 

  1. 参加資格で縛る
  2. (参加資格を得た後は)ルールで縛る
  3. 審査基準で縛る

 

などのことによって成立するゲームだとすると、確かに「自由」ではないし、「創造」も制限されたものになりそうだし、「独占」とはそもそも競争原理が働かないから成立するので、いずれのことばも競争の反対語として頷ける。

 

ところで、競争が起きている現場では何が起きているのだろうか?

 

競争には二種類ある。

 

合法的な競争と非合法な競争。

 

合法的な競争の世界にはスポーツマンシップに似た「勝って驕らず、負けて腐らず」な価値観が機能する余地があるが、非合法な世界ではなんでもアリだ。

 

どちらの場合も競争で疲弊する時は、相手の顔色を伺っている時だ。

 

ルールや審査基準が厳格で明確な場合は、他の競争参加者の顔色を伺い、ルールや審査基準が明確でない場合は、他の競争参加者だけでなく審査者の顔色も伺うことになる。

 

 

 

非合法な世界では相手の顔色の伺い方も一味も二味も違った凄みを見せる、先日NHKで放送された『半グレ』。

 

 

 

 

 

以前から、結果を出す冷徹な経営者的な資質として重要なのが「サイコパス気質」だと心理学者や脳科学者が言っているが、その裾野が確実に広がっている。

 

 

サイコパス気質が競争を好み、自由や創造性を求めることは競争することに対するアンチテーゼなのかもしれない。

 

 

 

被害者は、なぜかジョーカーを引いてしまう(=選んでしまう)。

 

 

「選んでもらう」「選ばれる」「選ばせる」という判断がなされるということは、何を選ばないかを決めることでもある。

 

すべての発端が「選んでもらう」「選ばれる」「選ばせる」にあるとするならば、考えるべきは『選ばない』ということ。

 

選択の誤りは典型的な後悔の原因だが、多くの場合選択時に悪い予感を伴っている。

 

 

『選ばない』ことが一概に良いことだとは思わないが、『選ばない』という選択肢があることは決して忘れてはいけない!

 

『アメリカン・ドリーム』という所与性の喪失!

アメリカの大統領選にトランプさんが立候補していた2016年に見つけてその後ずっと気になってる記事がある。

 

この記事が書かれたのは2014年。

 

今のアメリカは、アメリカンドリームを感じさせたアメリカと同じなのだろうか?

アメリカの人々の日常的心象に非常に興味深い影響力と補足力を持ってきた「アメリカン・ドリーム」ですが、アメリカにおけるこの言葉の使用に近年顕著になってきたのが、ネガティブな言葉との組み合わせです。新聞・雑誌記事や書籍、オンライン上で「American Dream」という言葉を検索してみると、それに付随するのは「終焉(end)」や「衰退(decline)」、「絶望的な(hopeless)」や疑問符(?)等々です。

 

今もそのまま当てはまっているだろうか?

 

この記事を見てしばらくした頃、ビジネス界のアメリカン・ドリームの代表格のようなシリコンバレーの過酷な現状を記事にしたものを読んだことがある。

 

シリコンバレーでは、年収1000万円クラスだとまともな生活ができず、自分の家や部屋すら持てないホームレスがゴロゴロいるという話だった。

 

誇張されてる部分はあっても、景気が良いことが即物価の上昇につながると生活は過酷になるということは、日本のデフレがいかにありがたいかを感じさせるのに十分だった。

 

私の脳内ではアメリカン・ドリームというと、全く無名の新人がオーディションで見出され一躍スターになるようなことをイメージする。

 

以下はアメリカン・ドリームについて語っていてもアメリカの話ではなく、むしろ日本の話。

 

日本の芸能界にもこのようなオーディション形式の登龍門が昔はあって、審査がオープンに公開されていた頃があったことを覚えている。

 

オーディションという呼ばれ方をすると芸能界の雰囲気が漂うが、他にも入学や入社にあたっての面接やビジネスにおけるコンペやプレゼンもオーディションと同じだが、どれもいつの頃からか名ばかりのものになり、真に競うとというよりも出来レース的なものになってしまったように感じられる。

 

アメリカですらアメリカン・ドリームが遠くに感じられるようになったことと日本の状況はリンクしてるように感じられる。

 

 

吉本興業を巡るドタバタ劇が一向に終息に向かわずに、次々と出る芸人の不満があるかと思えば、強く不満を口にした芸人がすぐにトーンダウンしたり、直接の利害関係者以外も多様なビジネスと関連づけて経営論を語ったりし続けている。

 

本当に面白い芸人なんて私の目には10人から20人程度しかいないが、今回のドタバタで吉本興業だけで6000人もお抱え芸人がいると分かった。

 

つまり、芸人としての競争は過酷だろうが、芸人になることに関しては競争原理は働いていないのだ。

 

 

またお笑い以外の分野(歌舞伎などの世襲制は除く)では、有名人の二世や三世などばかりが目立つのも入り口で競争原理が働いてないことを強く感じさせる。

 

一方、京都アニメーションの放火事件をキッカケにアニメ業界の構造を少し知ったが、過酷でありながらもお笑い業界と違い、入り口である程度の選別がなされていることも分かった。

 

 

アメリカン・ドリームは入り口が過酷で、求める側には強い理想があり、応募する側は実力以上の運や偶然も味方にできて初めてアメリカン・ドリームとして機能する。

 

アメリカン・ドリームのように、デビューと同時に主役で花形というケースはほとんどなくなったが、役者の世界で言うともともとは脇役や悪役で出続けた人達が、意表を突いた演技で主役以上の存在感や人気を示したりすることは珍しくなくなっている。

 

分かりやすいので芸能界で説明したが、一般のごく普通の世界でも似たようなことは起きているだろう、今進行中なのは多様性。

 

競争原理が働かない世界(良く言うと安定した世界)では基本は誰がやっても大差ないので、持ち時間を無難に消化することだけが関心事になり、オーディションが機能せずに二世三世が跋扈したり、出来レースが展開されたりする。

 

アメリカン・ドリームが消えた世界で消えているのは競争原理なのかもしれない。

 

不思議なことに、皆自分が一生懸命競争してる気になっているが、よく考えると競争相手を具体的にうまく説明できないのではないだろうか。

 

 

あったはずのアメリカン・ドリーム、これからもあり続けるであろうと思っていたアメリカン・ドリームが消えかけていると言うことは所与性の喪失を意味し、そのことに多くの人が戸惑っているように感じられる。

 

大きいことである必要は無い、自分なりのアメリカン・ドリームを持てることは重要になるだろう。