違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

上手にインサイダー取引をする人たちがいる!?

情報のやり取りに関してやってはいけないことの代表がインサイダー取引と言われる。

 

一般的なインサイダー取引は、株をはじめとする金融商品の取引で値動きに影響を与える情報を持つ者は、その件が公表される前に売買取引に関わってはいけないとする金融商品取引法の禁止行為を意味する。

 

しかし世間一般でのインサイダーとは、この金融商品取引法が規定するインサイダー取引だけでなく、広い意味で内部情報に精通してる人を介して特ダネを入手することを意味する。

 

独自取材の結果のスクープ情報なども、最初のキッカケはインサイダー情報から始まることが多いはずだ。

 

そういう意味では、インサイダー情報は密告やタレ込みでもあるので、情報を上げたい(≒売りたい)人と欲しがる(≒買いたい)人という需要と供給の関係が必要になる。

 

 

 

日経記事の不思議。誰が情報提供しているのか  2015年02月26日

どれも正式発表前である、発表の当日の朝刊に日経に掲載されている。

 

このようなM&Aはインサイダー情報であるし、金融庁の情報も重要情報である。

 

どうして日経に事前に掲載されるのであろうか。

 

 

 

 

少し前の話だがおもしろいことが書いてある。

 

指摘されてる内容は多くの人が、なんとなく思っていることなのだが、なんとなく見過ごしてることであり、きっと一般人には分からない力学が働いているのだろうなと見て見ぬふりをしてるのだろう。

 

働いている力学は、童話「裸の王様」と同じ大人の理屈だろう。

 

詳しくはブログを読んで欲しいが、ブログ主はこう感じている。

 

 

企業と日経のもたれ合いだろう。

 

企業側はそのような情報をいち早く渡して、特ダネとする事で恩を売り、自社に不利なネタを書かせないようにしたいのだろう。

 

 

 

同様なことは世間の皆様の中にも気付いている方がいらっしゃることがTwitter検索で分かる。

 

日経の記事からインサイダー情報を読み解く能力は投資家には必須なのだと思えてくる、一部を紹介すると、

 

 

 

 

 

内容の真偽はわたしには分からないが、このような書き込みが多数出てくる。

 

 

ZOZOに関しては日経というよりも前澤友作前社長にもインサイダー疑惑が拭えない。

 

 

この記事の最後は次のように結ばれている。

 

ゆく河の流れに人生を見たのが鴨長明なら、目の前を行く商品の流れに手数料だけを見たのが前澤氏。「新しい人生」と口にさせたのは、捨てた人生の空しさだったのだろうか。

 

そんな前澤氏に手を差し伸べたのが孫正義氏。

 

孫正義氏も前澤友作氏も経営者というよりは投資家と呼んだ方が相応しい。

 

二人とも事業を隠蓑にしてインサイダー情報を駆使した投資家だと考えるとやたらと花火を打ち上げたがる行動にも納得がいく。

 

 

翻って考えると、もし儲けることが大事であるならばこれからはインサイダー情報を入手することが重要になるはずだ。

 

日経新聞を巧みに使うことで一部の人たちがグレーなインサイダー取引を実現してるように感じられる。

 

 

わたしはこういう生き馬の目を抜くような世界は苦手だが、それを傍観するのは嫌いじゃないので、皮肉な目で見続けていきたい。

 

 

フェイクニュースは幽霊みたいなもの!

明らかな嘘で世間を騙しミスリードするのがフェイクニュース。

 

現代では世界は一瞬で繋がるので、フェイクニュースの賞味期限は短いが、それでもミスリードされる人の数は少なくない。

 

1999年の7月に人類は滅亡するという解釈を掲載した「ノストラダムスの大予言」が発売されたのが1973年。

 

ベストセラーになり3ヶ月で100万部を突破し、1998年8月時点で209万部450版だったとwikipediaには書いてある。

 

ノストラダムスの大予言は、日本人の終末思想観に大きな影響を与え、オウム真理教をはじめとする新興宗教にも影響を与えたと言われている。

 

ノストラダムスの大予言なんて、真実のわけないと思いながらもどこかで信じてしまう気持ちを持つ人が多かったから大ヒットしたのだ。

 

1973年が現代のような環境だったら、ノストラダムスの大予言はフェイクニュースと言われるか、単純な創作娯楽の域を出ず大してヒットすることもなかっただろう。

 

2011年の東日本大震災は、報道機関が撮影した映像以外に多数の個人が撮影した映像があり、それらが世界中に配信されたので地震の恐怖や津波の恐怖を如実に伝えていた。

 

しかし、体験した人はというと東日本の人だけで、西日本の人は報道で知ったわけで体験したわけではない、しかし映像が豊富だったので擬似体験には十分だった。

 

時代が違えば、東日本大震災を体験しなかった人に地震や津波の凄まじさを伝えてもちっとも凄さは伝わらなかっただろう。

 

中にはフェイクニュースだと感じる人もいるだろう。

 

あるいは、伝えてる人を「大袈裟だ」と感じるかもしれない。 

 

東日本大震災は869年の貞観地震の再来だと言われている。

 

映像など無く、古文書が伝えるだけだが1000年以上経つと使ってる文字も表現も大きく変化し、読み解くことは一般人には難しいものになる。

 

地震には一定の周期があり、津波を伴うことは広く知られていても貞観地震の記録だけでは東日本大震災を予見しそれに備えることは不可能だったかもしれない。

 

そういう意味ではノストラダムスの大予言の逆で、真実の記録なのにそれに相応しい扱いは受けなかったことになる。

 

東日本大震災の記録は豊富なデジタルデータとして残っているが、次の大地震と大津波が訪れる時代にきちんと届けられるのだろうか?

 

東日本大震災からの復興は福島第一原発の問題や風評被害という人災もあり遅れているが復興を目指している。

 

壊滅的な被害を受けてもそこから立ち直る動きがあるかと思えば、世界に目を向けると壊滅的な被害など受けてないのに消えてしまうものもある。

 

ピラミッド建設など高度な技術を持っていたはずのエジプト文明は突然消えたと言われている。

 

ここから先は噂話みたいなもの。

 

砂漠の地であるエジプトに文明が発生したのはナイル川の氾濫のおかげだと言われている。

 

氾濫によって肥沃な土がもたらされることが文明を支えたと言われている。

 

文明が消えるほどの大災害や戦争があったという記録も無い。

 

その結果出てくる仮説の一つに、ナイル川が氾濫しなくなったからというのがある。

 

ナイル川の氾濫がもたらす恩恵を受けられなくなったことでエジプト文明は突然崩壊したという説がある。

 

 

この話を聞いて感じることが二つある。

 

ナイル川が氾濫しなくなったということは川の水量が減ったということで、水の循環に大きな変化が起きたということを意味するのかもしれないというのが一つ。

 

もう一つは、災害は被害を生むので今生きてる人からは歓迎されないが、歴史を振り返るとあの災害のおかげででと言えることもあるのかもしれない。

 

 

地球温暖化という問題の恐ろしさは、水の循環を変化させることにある。

 

そういう意味では、エジプト文明を消滅させた時期と今の地球環境は似ているのかもしれない。

 

水の循環が変化すると、水害が増える地域と水不足になる地域が増えてくる。

 

同様に地球温暖化に起因する温度の上昇は台風やハリケーンや集中豪雨などの被害をもたらすことが増えている。

 

 

 

地球温暖化など起きていないとするトランプ大統領が発することばがフェイクニュースなのか?

 

あるいは、今顕著に目立つ自然現象を地球温暖化のせいにすることがフェイクニュースなのか?

 

 

フェイクニュースとは幽霊みたいなもの。

 

幽霊の正体見たり枯れ尾花!

 

 

 

おもしろく感じる話には感情が動く、感情が動くと好意を感じることが多くなる。

 

好意を感じると信じたくなる。

 

 

信じたいという気持ちが、フェイクニュースを選ばせる。

 

 

男をペットにしたがる女!

日本では、男女交際も結婚も男目線で語られることが多かった。

 

そして、一般的な組み合わせとして男性が年上で女性が年下が当たり前だというのが日本の当たり前だった。

 

結婚生活がうまく行く組み合わせの一つに姉さん女房というのがあるが、これは年上の女性は生活の切り盛りが上手であるから言われ始め、「年上の女房は金のわらじを履いてでも探せ」「姉女房は身代の薬」「姉女房は倉建てる」などと諺にもなるほどだ。

 

これらの諺は、稼ぐのは男で女は家を守ると言われた時代のことばで、現代のように稼ぐのに男も女も関係なくなると、実際に奥さんの方が稼ぎが良い家庭なんてたくさんあるはずだ。

 

男尊女卑が長く続き、未だに一部では男尊女卑は生きているが、女性の方が稼ぐことが珍しくない時代になると、恋人や夫婦の在り方に女尊男卑が生まれることも珍しくないだろう。

 

言うことを聞くかわいい男を欲する気持ちが女性の側に芽生えても何の不思議もないだろう。

 

21世紀はそう言う時代だと感じていたが、この事件でますますその思いを強くした。

 

 

埼玉小4遺棄 逮捕の義父、一転否認…母親とは“ネット婚”

捜査関係者によると、遼佑君の母親(42)と知り合ったのは1年半ほど前で、きっかけはインターネットだったことが分かった。3人での同居を昨年12月にスタートさせ、今年3月に再婚した。

 

限りなく下衆の勘ぐりで、圧倒的に情報量も少ないのだがこの夫婦の話を聞いて、年上の妻は「言うことを聞くかわいらしくて、おまけに子守もしてくれるペットとして夫を選んだんだろうな」と思えた。

 

まさか自分や自分の子供に牙を剥くとは思っていなかったのだろう。

 

 

具体的に何があったのかはまったく不明だが、きっとくすぶり続けた火種があったはずだ。

 

 

ペットが飼い主に牙を剥く時は、飼い主がペットの気持ちに対して無理解や無視などがある場合だ。

 

この母親からすると実の息子もペットだったのかもしれない。

 

ペット同士で飼い主の愛情の取り合いがあったのかもしれない。

 

 

 

ブラック企業の経営者にとって社員はペットみたいなもの。

 

現代では、人間関係に立場の上下が発生する場合、支配関係や服従関係に置き換わってしまいやすいのかもしれない。

 

支配され、服従させられる側のペット化が起きやすいのだ。

 

 

付き合う人や関わる人の選び方を間違うと大変なことが起こる。

 

と同時に、自分が上の立場に立った時には深く考えないと、思わぬところで牙を剥かれるし、それは不意打ちとして起こるのでダメージは計り知れなくなるだろう。

 

シンプルに見える人間関係には要注意!

 

 

変化する『他人の不幸は蜜の味』!

人間の心に潜む邪悪で黒い部分を示すことばがある。

 

他人の不幸は蜜の味!

 

これは事実なのかを確認するために医学的、心理学的な実験が多様に試みられた結果、ほぼ間違いないと言われている。

 

一例を紹介すると、

 

京都大学大学院医学研究科の高橋英彦淳教授は以下のシナリオを使って、妬みの感情をfMRIで観察しました(『なぜ他人の不幸は蜜の味なのか』高橋英彦著)。

 

【被験者】

●主人公(男)学業は平均的男子大学生、野球部で補欠、貧乏で寮暮らし、恋人なし

●一郎学業優秀、野球部でエース投手、経済的に豊か、女子学生にモテる

●花子学業優秀、ソフトボール部でエース投手、経済的に豊か、男子学生からモテる

●並子学業は平均的、ソフトボール部で補欠、男子から人気なし

 

*女性の被験者の場合には、主人公を女性として性別を入れ替えたシナリオにします

 

 

ご想像のように、主人公は一郎を最も妬ましく思い、次に花子を妬ましく思いました。並子は妬む理由がないため無関心でした。主人公が一郎や花子のプロフィールを見た際に、脳で活動した領域は、前頭葉の前部帯状回の上の部分でした。この部分は、身体の痛みの処理に関係している部位。つまり、「妬みとは心が痛いことである」ということができるかと思います。

このシナリオを使ったfMRIの実験で、「他人の幸福は飯がまずい」ということが、人間の本性であることがはっきりしました。

 

(中略)

 

人間には妬みがあります。そして、妬みを感じると心が痛いため、それを和らげるため自分の社会的地位を示すために衒示的消費(誇示的消費、みせびらかしの消費)を衝動的に行いがちです。

 

「他人の不幸は蜜の味」は科学的証明済み

 

 

 

他人にはいくらでも嘘をつけるが自分にはつけない。

 

自分の心の中に、他人の不幸を喜ぶ気持ちがあることに気付いた人はたくさんいるだろう。

 

だからだろうか、週刊誌やワイドショーに代表されるスキャンダルネタが好きな人は大勢いる。

 

身近な人だと生々し過ぎて表立って話題にし辛くても、有名人や芸能人のスキャンダルだったら遠慮なく話題にできるだろうし、その際に正義を振りかざすのも定番だ。

 

そんな他人の不幸は蜜の味の世界に変化が訪れているという話がある。

 

 

二つの事情が関係してるらしい。

 

一つは、証拠や裏付け取ることと紙一重のところに名誉毀損があったり、復讐を恐れて証言を拒まれたりすることが増えているので記事にするには不十分な状態なので情報が表に出づらくなっているという事情。

 

有名人の話ではなく身近な誰かの話であっても、言い出しっぺにはなりたくないという人が増えているのだ。

 

スキャンダルのスクープは、少々あやふやでも最初に言うことに価値があったような気がするが、その価値観に変化が出ているようだ。

 

 

二つ目の事情として、他人の不幸を喜ぶよりも正義や正論を振りかざす方が快感が大きいと感じる人が増えているらしいことがある。

 

正義や正論を好む人達は、他人のスキャンダルや不幸は興味がないか、あってもその順位が低いので、情報としての需要が下がってきてるらしいのだ。

 

他人の不幸が蜜の味がするのは、相対的に自分が幸せだと感じられるからかもしれないが、そもそも今の自分がどこから見ても不幸ならば他人の不幸はなんの慰めにもならない。

 

そういうことを感じる人が増えていることも他人の不幸の需要減に繋がっているのだろう。

 

他人の不幸を喜ぶという気持ちはある程度の余裕があるから成り立つことで、余裕がなければ他人の不幸はちっとも楽しめないのだとすると深刻な理由だという気もする。

 

 

 

あなたは他人の不幸で、飯が美味いと感じますか、それとも不味いですか?

 

不思議な力があった深夜ラジオ(オールナイトニッポン)!

最初の15分くらいを見て残りを録画していた番組を見た。

 

 

この番組の印象に残った部分を記したい。

 

 

1967年から始まったオールナイトニッポンの制作者であり後にニッポン放送の社長になる亀渕昭信は次のようなことを言っている。

 

 

「亀渕さん、オールナイトニッポンをずっとやってて、優秀なパーソナリティに共通点はありますか?って聞かれるんです。」

 

 

「たった一つだけあるんです。」

 

 

「聴く人に対して優しいということですね、本当に優しいんです。」

 

 

「何か人の心をちゃんと分析して読み取ってくれて、ちゃんと心添えてくれるというか、優しい気持ちというのがみんな持ってると思うんです、パーソナリティは本当に優しいということがとても大事なキーワードだったように思います。」

 

 

 

ラジオの深夜放送は受験生が多く聞いていた番組だが、受験以外の悩みを抱えるリスナーも多いし、そもそも深夜ラジオを聞く者は昼間はくすぶった存在であることが多いので、そういう意味でも優しさは大事な要素だった筈だ。

 

 

そんなパーソナリティの優しさをぶち壊したのがビートたけし。

 

「ラジオのお客さんは、オレらが飲み屋で話してるのを同じカウンターで聞いてるって状態になったんだとは思うんだよね、ただそのオレみたいな面白い、自分で言うのもなんだけど、変な生き物がいて、それをみんなに見してやるってだけ」

 

 

当時漫才ブームの頂点にいたビートたけしは、自分の中では漫才ブームに飽き始めていた。

 

そんなタイミングで放送作家の高田文夫が「深夜ラジオやらないか?」って声をかけてきた。

 

それがビートたけしがオールナイトニッポンに出るキッカケになった。

 

1981年1月1日の第1回の放送の中でビートたけしはこう言った。

 

 

「これは、ナウい君たちの番組ではなく、ワタシの番組です」

 

 

若者に寄り添わない本音のトーク。

 

 

「死にたいの?」

 

「じゃあ死ねば!」

 

 

そんな本音の応酬がパーソナリティとリスナーの間で繰り広げられるようになると、ハガキ職人と呼ばれる面白い話を投稿するリスナーが現れ始めた。

 

ビートたけしは、そんな現象を現代のSNSの役目に近かったのではと述懐している。

 

 

そんなハガキ職人の一人だったのが秋元康。

 

秋元康は自分の原点はハガキ職人であることを自覚し、その強みはリスナー(視聴者含む)の気持ちが分かり、パーソナリティ(番組制作者含む)の気持ちが分かることで、それが現在のプロデュース業に役立っていることを感謝している。

 

 

 

若い人が見ても面白い番組ではなかったかもしれない。

 

 

 

現代の受験生は深夜ラジオなど聞くのだろうか?

 

 

昔の深夜ラジオには現代のSNSが持つ以上の不思議な力があったような気がすることを思い出した。

 

 

 

電気のありがたさ!

台風15号の影響で発生した千葉の大停電は、電気のありがたさを感じさせるとともに、現代人がいかに何もかも電気に依存してるかを思い知らせてくれた。

 

直近では、2011年3月11日に発生した東日本大震災の影響での停電やその後の計画停電など東日本では電気に関して不自由を強いられる生活を余儀なくされたが、この時は命の危機を感じたこともあるだろうが不便や不自由に不平不満を言うよりも生きていることのありがたさの方が上回っているように感じられた。

 

千葉の大停電は千葉県民のローカルの出来事と受け取られてるのに対して東日本大震災の場合は、関東や東北の人全員の問題でもあったので、自分だけが被害者じゃないという思いが慰めになっていたはずだ。

 

2011年には計画停電をはじめ電力の使用制限が法律として発動されていた。

 

電気事業法で定める電気使用制限等規則が発動されたのだ。

 

本規則に基づき、具体的に電気の使用制限を発動するためには、経済産業大臣が対象地域や対象項目、対象者を指定する告示を別途発する必要があることから、報道機関などでは本規則と前述の告示をまとめて電力使用制限令(でんりょくしようせいげんれい)あるいは電力制限令(でんりょくせいげんれい)と称することが多い。

 

2011年に発動された電力使用制限のキッカケは地震そのもののせいではなくその二次被害が福島第一原発に発生したからであり、これ以降日本の原子力政策はトーンダウンし始めた。

 

日本で電力使用制限が発動されたのは2011年が二度目で、最初は1974年だ。

 

産油国の中東で起きた戦争で原油価格が急騰した影響が世界中に及んだ第一次オイルショックが発生し、エネルギーを原油に依存していた日本も影響を受け電力使用制限が発動されたのだ。

 

ウィキペディアにはこんな事例が載っている。

 

省エネルギーへの取り組み

  • デパートエスカレーター運転中止。
  • ネオンサインの早期消灯。
  • ガソリンスタンド日曜日休業。
  • 鉄道事業者における最終列車の繰り上げなどの処置。
  • 日本の地下鉄事業者がの照明を間引き。
  • 日本プロ野球においても、照明の消費電力をセーブするために平日のナイターを19時前後開始から18時前後(遅くとも18時30分までに)開始に繰り上げてみたり、また週末・祝日は極力薄暮を含めたデーゲーム(夏季除く)で開催するようにしていた。
  • トヨタ自動車日産自動車マツダなど主要自動車メーカーが、一斉にモータースポーツからの撤退を行った。
  • テレビ深夜放送の休止。特にNHKは教育、総合両方ともに23時以降の放送を休止と日中(総合ではUHFテレビ試験放送を含め月曜日から金曜日の15時-16時台前半。なお、国会中継高校野球中継が行われた場合は休止時間帯でも放送されていた。教育では14時30分-17時30分の内1-3時間)の放送休止。なお、民放5社が深夜放送の自粛を決定したのは、1973年(昭和48年)12月14日。また、岐阜放送テレビなど独立UHF放送局の一部では、放送開始時刻の大幅な繰り下げ措置や日中の放送休止時間(千葉テレビ放送奈良テレビ放送など)がとられた。

 

 

 

このオイルショックの経験が原油への依存の危機感を高め、原子力に舵を切るキッカケになっている。

 

事情が分かれば原子力発電は必要から誕生してることがわかる。

 

原子力発電は可変運転できないので常時一定電力を発電し続ける。

 

そのために割安な価格を設定してでも夜間の電力の使用が奨励されるようになったこともあり、このことが24時間店舗を増加させることに繋がり、人々のライフスタイルを変えることにも繋がった。

 

1974年の電力使用制限から傾いた原発依存は40年後にその傾きが修正されることになった。

 

 

千葉での大停電は、家庭の太陽光発電が有効であることに気付かせてくれたが、十分に機能を活かすためには蓄電池が重要であることも教えてくれている。

 

太陽光発電は備えているのに蓄電池を持たない家庭も多いのだ。(売電目的で設置してるから)

 

何もかも電気に依存する生活は簡単には改められない。

 

電気の地産地消は考えるべきテーマになりそうだ。

 

天災よりも怖い人災!

千葉県で発生した大停電は強力な台風の進路の右(東)側の恐ろしさを示す典型的な天災のせいだと思っていたが、いつまでも復旧しない様子を見てると人災にも見えてくる。

 

当初見えてた人災は、国や県を含めた自治体と東京電力の連携の悪さに感じていたが、徐々に実態が明らかになってきた。

 

分かってくると、人災としての見え方も変わってくる。

 

自治体や東京電力など現場の人の人災に見えていたことは、政治の人災でありしかも過去の施策のせいであり、過去と現在が繋がっていない(=繋げられていない)という無策のせいだという側面が見えてくる。

 

詳しくは下記のサイトを読んで欲しい。

 

千葉大停電の遠因か。倒木処理の難しさと山武杉の悲劇を振り返る

ここで樹木の伐採の難しさを少し説明しておこう。

(中略)

次に気になるのは、倒木の種類だ。

(中略)

今回の災害は、風があまりに強かった台風が引き起こしたものだ。しかし地域に合わせた林業技術を捨て、多様性を失わせた末に放置を招いた林業政策も、処理の難しい倒木を大量に発生させた一因かもしれない。

 

 

 

今年の夏は、千葉の大停電の直前には佐賀の水害があった。

 

直接の原因は大雨で、地域の排水能力を超えた水が押し寄せることで水害になったと思われていたが、

 

 

 

 

時代とともに技術的、文明的に進化したはずの人間は、実はバカになっているのかもしれない、だから天災を人災にしてしまうのかもしれない。

 

 

1995年に発生した阪神淡路大震災で壊滅的に被災した神戸は当初回復不可能かもと言われたこともあったが順調に回復していった。

 

もちろん震災前の神戸を知る人からすると物足りない部分は多々あっただろうが。

 

神戸が順調に回復できたのは被害が地震という天災だけだったからだ。

 

それに対して東日本大震災では、津波被害という壊滅的な天災被害があったが、その後の回復復興を妨げたのは福島原発事故という人災による直接の被害と噂による風評被害の人災ダブルパンチを受けたからだ。

 

探せば、天災だと思われてる被害の中には、キッカケは天災だが大事に至った理由はその後に人災が追い討ちをかけたからだと言うことがたくさんあるだろう。

 

知識が増えれば増えるほど反比例するかのように知恵を無くしていくのが今の日本人なのかもしれない。

 

知恵を無くした人間を見分ける方法がある。

 

知恵を無くした人間は想像力が欠如するので、現場で何が起きてるのかを理解できない、そういう人種は想定外ということばを好んで使っている。

 

人前では想定外ということばは使わない方が賢明だ!