違う見方

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コロナが変えてくれる価値観、ビル・ゲイツの話を参考に!

世界中を混乱させているコロナウイルスにも良い点があると言うことを一部の人たちが言い始めてる。

 

共通する内容としては、格差が極まる現代社会で、コロナウイルスはすべての人に平等に恐怖を与えていると言う意味で、平等をもたらしている、ということ。

 

そんな一人のビル・ゲイツはこう言っている。

 

新型コロナウイルス:ビル・ゲイツ氏からのオープンレター Beautiful open letter from Bill Gates

 

この中で13の項目を上げている。

 

〜〜以下引用〜〜

 

1) 私たちは皆平等であることを想起させてくれます

 

2) 私たちはすべて繋がっています。ある人に影響があれば、他の人にも影響があるということを思い出させてくれます

 

3) 私たちにとって、健康がいかに大切なことかを思い出させてくれます

 

4) 人生の短さ、そして私たちにとって最も大切なものは何なのかを思い出させてくれます

 

5) 私たちの社会が、いかに唯物論的になってしまったかを思い出させてくれます

 

6) 家族、そして家庭生活がいかに大切かを思い出させてくれます

 

7) 私たちの真の仕事というものは、社会的職業ではなく、日頃の行いではないでしょうか

 

8) 自分たちのエゴを常に認識し合うこと

 

9) 私たち自由意志はすぐそこにあります

 

10) 我慢強さを見せるのか、パニックに陥るのか

 

11) 世の終わりか、あるいは新たな始まりなのか?

 

12) 私たちの地球そのものが病気ではないのか?

 

13) あらゆる困難のあとには、いつも安らぎがきます

 

〜〜引用ここまで〜〜

 

 

詳しくはリンク先の記事を見て頂くとして、幸せや喜びを再度考え直すキッカケになっていると言えそうだ。

 

個人レベルではささやかなことに喜びを感じられる生き方の方が幸せに近いように感じられるが、大きなことをやりたがる政治の世界はそうはいかず、その原点は争う(競争する)にあると思わせられる話が出ている。

 

 

ここに来て噂話を表舞台に引きずり出して既成事実にしようとするかのような話が出ている。

 

新型コロナ発生源は「米国」、在仏中国大使館が示唆 2020年3月24日

 

 

「米軍ウイルス持ち込み」の根拠は?新型コロナウイルス感染源めぐる米中舌戦 3/26

 

〜〜以下引用〜〜

 

トランプ米大統領や高官が「チャイニーズ・ウイルス」「武漢ウイルス」と呼ぶと、中国外務省高官は、「米軍が武漢に持ち込んだかもしれない」とツイート。

 

 

〜〜引用ここまで〜〜

 

 

真相はともかく、ビル・ゲイツの話とは大きく違うことがわかる。

 

 

今となっては遠い昔話のように感じるがアメリカが中心になって世界中に波及した中国ハイテク企業のファーウェイ排除の動きは2年くらい前から始まり、1年前の春に一気に盛り上がり出した。

 

その後ファーウェイを排除したいと言う思惑で一致しても、圧倒的に優位なファーウェイの技術は使いたいというジレンマでなんとなくトーンダウンしたかのように、わたしには見えていた。

 

今年の年明けには、一旦ファーウェイを排除するかに見えたEUがファーウェイを排除しないと態度を決めた。

 

まるでそんな動きを牽制するかのようにコロナウイルスが出現しているのだ。

 

最初は中国武漢が舞台で、その後ダイヤモンドプリンセス号の関係で日本が注目を浴びるが、実際にはひっそりと舞台はファーウェイを受け入れたヨーロッパに移っていたのだ。

 

そして、次の脅威はアメリカ国内での感染爆発だと言われてることが興味深い。

 

 

コロナウイルスは米軍が中国に持ち込んだと言う話と合わせると、一気にドス黒く渦巻く陰謀の応酬に思えて緊迫感が感じられるが、そんな中でビル・ゲイツのような話が出てきたのは偶然ではないはずだ。

 

 

遅かれ早かれ時間の問題でいずれは収まるだろうこの混乱の後で、何事もなかったようにコロナ前に戻るのか、それとも生き方を少し変えるのか?

 

生き方を変えることなんて簡単に出来ることではないが、今はそのチャンスがあるといえばあるのだ。

 

そんな時に相性が良いのは180度反対の価値観。

 

 

ビル・ゲイツの話を考えてみるのは無駄ではないはずだ!

 

 

頑張っているのに差がつくのはなぜか?!

頑張ることは美徳とされるが、世の中を広く見渡すと成果を出したり報われる人は頑張ってる人とは言えないことに気付く。

 

もちろん、成果を出したり報われる人が頑張ってないなんて言ってるわけではない。

 

世の中には、頑張ることよりも大事なことがあるはずだと思えるので、まずは頑張るとはどういうことかを考えてみたい。

 

頑張るとは、目標を定めてそこに向かって少しずつ着実に継続的に行動を積み重ねることと言えるだろう。

 

昨日も似たことを書いたが、こういう場合筋トレを例にすると分かりやすい。

 

そこで、筋トレやスポーツを頑張ることで裏目に出る事例をネット上で拾ってみた。

 

 

ハマりすぎてまさかの破局!?筋トレ好きな彼氏や夫がいる女性に聞く不満

  • 最も多い不満は筋肉自慢
  • とにかくお金がかかる
  • 必要以上にアドバイスしてくる
  • 筋トレのことしか考えてない
  • 意味不明な言動

 

 

このサイトでは筋トレ男子に対する違和感が書いてあるが、Twitter上では筋トレ女子に関して#筋トレ女子あるあるもあり、筋トレに夢中な場合男女の差はなさそうだ。

 

 

上記は、頑張ることや夢中になることが、ライフスタイルに影響を及ぼすという話で、悪いことというよりも、価値観が共有できてない人との間にすれ違いが生まれやすいという話。

 

それに対して以下は、良かれと思ってやってることが直接裏目に作用する例。

 

 

 

 

急激な運動量増加は危険!?「シンスプリント」とは

オーバーユース症の1つで、繰り返しのランニングやジャンプを過度に行った場合に発症しやすい障害です。過度の運動量、運動時間、運動内容、日数またはフォームの変更、硬い路面、薄く硬いシューズ(踵の摩耗)、下肢の形態異常(O脚、回内足、扁平足など)、下腿三頭筋の柔軟性低下、股・膝・足関節の柔軟性低下、足関節可動制限などが発生の誘因となります。このうち、特にクラブに入部したての部員などにみられる急激な運動量増加が一番悪い影響を及ぼします。思い当たる点がある人はすぐに改善しましょうね!

 

 〜〜引用ここまで〜〜

 

 

頑張ることが悪いのではなく、何のために頑張るかをきちんと意識し理解してないことが悪いと分かる。

 

 

翻って日常生活の頑張りに目を向けると分かりやすい。

 

勉強やビジネスでの頑張りには、やってる本人はまじめにやっていても、実際にはポーズに過ぎない行動が多い。

 

やってる本人は、いい加減なことをやってるわけでもなければ、手を抜いているわけでもなくても、成果にはつながらず頑張りが報われないことが多いのは、頑張る動機や理由が間違っているからだ。

 

間違った頑張りの前に、間違った選択をしてることもある。

 

その結果、間違った方向に歩を向けるのだ。

 

そういう意味では良い指導者と出会えることは運が良いと言えるだろうが、その指導を受け入れるかどうかは結局本人の問題になる。

 

 

 

家を選ぶ場合に、近隣の人間関係を気に掛ける人は多いだろう。

 

しかし、頭で考えると周りに住む人は選べないと思いがちだ。

 

そんな時は、生活環境や家族環境が似た人が多い環境を最低でも選ぶ必要がある。

 

最低でもと書いたのは、最後は周りに誰がいるかに尽きるので、そこは難しいから。

 

事情通は、一棟のマンションの中に、1LDK、2LDK、3LDKなど、様々な間取りの住戸が混在するマンションはトラブルが生じやすい、と知っている。

 

1LDKに住む人と3LDKに住む人とでは、生活習慣、家族構成だけでなく、マンションの運営についての考え方も全く違う。

 

トラブルは悪人が起こすというよりも、価値観の違いやズレから起こることが多い。

 

価値観の違いやズレを頑張りや努力で補おうとすることは非常に疲れる割には報われないだろう。

 

考え方や価値観が違うであろうことの予測は付けられるのだが、その予測を自然と判断できるセンスの持ち主と、予測できない人では一事が万事でどんどん差がつくだろう。

 

この差は、頑張りの差でついた差ではない、運の良さの差ですらないかもしれない。

 

 

昨夜発表された東京オリンピックの一年延期。

 

噂はありながらも予定通りの開催にこだわる姿勢の強さに、延期派はどのように仕掛けたのだろうか?

 

 

次の記事は非常におもしろい。

 

「五輪延期すべき」論の“火付け役” 山口香JOC理事が「密室」の外で声をあげた理由

 

 

日本ではオリンピックに関係する人たちは、誰もが口先ではアスリートファーストを唱えるが、実際には政治ファーストであり、権力バンザイで進められる。

 

日本の政治は密室で行われると相場が決まっているので、オリンピック延期派は議論がオープンな場に持ち出されるように動いたのだ。

 

上記の記事には、オリンピック延期に関して声を上げた関係者として四名の名が上げられてる。

 

 〜〜以下引用〜〜

 

山下氏といえばJOC 理事会を報道陣へ非公開にすると決めたという話題も去年あった。

すると山下JOC会長の提案に対し、採決で反対したのは「4人」。その名前は、

・小谷実可子(シンクロナイズドスイミング88年ソウル五輪銅メダリスト)

・高橋尚子(マラソン00年シドニー五輪金メダリスト)

・山口香(柔道84年世界選手権金メダリスト)

・山崎浩子(新体操ロサンゼルス五輪代表)

 

《いずれも女性。普段の公開の理事会でも積極的に発言する顔ぶれだった。》(毎日新聞2019年8月26日)

〜〜引用ここまで〜〜 

 

 

頑張るというと、闇雲に突っ走ることだと思ったり、根性論に置き換えることはいまだに日本の各種の現場でまかり通っているが、きちんとした戦略や戦術が必要になると、そろそろ全員が気付く必要がある。

 

差がつくのは、頑張りが足りないからではなく、戦略や戦術の差で、あるいは戦略や戦術そのものがないことから起きているのだと気付く必要がある。

 

そして、もっと大事なことは、最初から最後まで自分一人で完結できること以外の場合は、一緒に行動する人と戦略や戦術を共有できていることだ。

 

つまり、誰と関係するのかが非常に大事になるのだ。

 

そういう意味ではまだまだ、付き合ってはいけない人と付き合ってる人がたくさんいるのが今の日本。

モチベーションは麻薬!

決して珍しい話ではないが、有名人でそれなりのカリスマとして通用している人の身に発生すると悪い意味でインパクトがあるということがある。

 

良いことづくめのように思われてる筋トレですらだ。

 

金子賢は肩や肘を手術へ シャンプーも出せない… [2020年3月23日]

ボディビルダーとしても活躍する俳優の金子賢(43)が、肩や肘の痛みにより「シャンプーのプッシュも出来ないくらい」の状態だったことを明かし、手術を受けることを報告した。

 

 

 

そうなった理由は書かれてないが、金子賢さんは一定のカリスマ性を持っているようで鍛神というサプリをリリースしている。

 

鍛神(きたしん)とは金子賢さんが監修し効果を実証したと称するサプリで従来のプロテインに置き換わる存在としてリリースされてるようだ。

 

ネット上でこのサプリの広告を見た人も多いかもしれないが、サプリそのものよりも使ってる人がどういう人たちなのかの方が興味がある、そこで次のようなサイトを見ると。

 

鍛神の効果は嘘か本当か?服用者のリアルな口コミをまとめてみた!

さて、鍛神を服用した方のいろんな意見を参考にしてみましたが、いくつかの共通点があったようにも思えます。

「効果があった」「効果がなかった」どちらの口コミもありましたが、これらを参考にして言える事は、

 

  • ・鍛神を飲むだけでは鍛えられない、痩せられない
  • ・飲みやすさや使い勝手は良さそう
  • ・2ヶ月~3ヶ月くらい継続して飲む必要がある
  • ・Amazonや楽天だと少し値段が高い

 

こんな感じですかね。

 

結論、鍛神をうまく活用すれば十分な筋力アップが期待できると思うので、まずは諦めずに継続して飲み続ける事が大切だという事です。

 

それに+αで体を動かすトレーニングも頑張ってみましょう!

 

 

 

今時は、レビューを装ったステマやウソは日常に溢れているので、それを見ても商品(この場合はサプリ)の真実が分かるとは言い難いが、その商品がマーケティングとしてどのような属性の人をユーザーにしようとしてるかは想像できるのだ。

 

筋トレというキーワードに反応する人には大きく二種類の方がいることが想像できる。

 

共通してるのは、理想の体に対するイメージは持っているのであろうということ。

 

ここでいう理想の体とは姿形としてのフォルムのことで、発揮するパフォーマンスではない。

 

違いが出るのは、そのためのアプローチの方法で極端な言い方をすると。

 

  1. キツイことを喜んでやる
  2. キツイことは一切やりたくない

 

 

この極端な両者を惹きつけるために金子賢さんはストイックに自分自身の肉体を鍛えたのだろう、能書きよりも肉体の方が100倍説得力があるからだ。

 

その結果得た肉体は、目標のためにはキツイことを厭わない人には自然とアピールが届く、そして、そんな肉体がこのサプリで手に入りますとアピールすると、キツイことは一切やりたくない人たちにもアピールが届くようになる。

 

騙したとか騙されたという話がしたいのではなく、したいのは、望むと望まざると人には与えられた役割が課されたり、自ら課すことがあるということだ。

 

 

 

今や麻薬や覚醒剤で有名になった田代まさしの最初のつまずきは2000年に盗撮容疑で捕まったことだった。

 

この事件の発覚時に、盗撮理由として『ミニにタコができる』という映像を撮ろうとしていたと言い訳したが、

 

事務所から「ギャグにしよう」と言われて考えたら、かえってバッシングを受け裏目に出たと後に語っている。なお、田代自身は事務所からこの提案をされた際は決して乗り気では無かったという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/田代まさし#2000年の迷惑防止条例違反

 

事件当時は、田代まさしはギャクの王様、ダジャレの帝王などという冠がまだ通用していた頃だった。

 

つまり、自分に割り振られた役を演じて窮地を乗り切ろうとしたが、それが通用しなかった。

 

 

与えられた役割を演じ、その役にのめり込むことは、中毒に陥ることとほぼ紙一重で、モチベーションが高くなければアピールする力は弱くなる。

 

結果が良ければ賞賛が得られ、結果が悪いもしくは出なければ賞賛が得られないだけでなく時には非難される。

 

 

筋トレに話を戻すと、筋トレと言ってる場合の多くは実はダイエットを意味していて体脂肪率を下げることを目指し、具体的には腹筋の割れが浮き上がる姿が一つの理想という場合が多い。

 

しかし、この体脂肪率が低いという状態は、体や脳は飢えを強いられている状態でもあるので、正常な生理機能を果たせなくなることに繋がりやすいが、そんな状態にもかかわらずモチベーションが持続するということは麻薬や覚醒剤で脳が騙されることと共通してるのだ。

 

金子賢さんと田代まさしは、見た目は全然違うけど、二人には共通点が多いのだ。

 

体脂肪率を下げたければ見直すべきは生活習慣しかなく、体脂肪率を基準にしてると生活習慣が変わるとは必ずしも言えなくなる。

 

その小さなズレが、体脂肪率が下がったとしてもトータルでの良い結果をもたらさないことに繋がるのだ。

 

その結果が冒頭の金子賢さんの手術の必要につながるのだ。

 

 

強いモチベーションの持ち主と中毒に陥った人の行動パターンに感じられる共通点を考えていると、モチベーションは麻薬に似てるなと思えてくる。

 

人間は脳内で分泌される脳内麻薬と呼ばれる物質を持っていて、これはもちろん無害だが、人間は大なり小なり生きるためのモチベーションを麻薬的な働きに頼っているのだなと思えてくる。

 

 

油断と紙一重のコロナ後の人生設計。

世間の3連休の過ごし方に変化の兆しが感じられた。

 

自粛要請されていたK -1の大会が6500人を集めて実施された。

 

桜の名所には大勢の人が集まり、BBQが禁止されている河川敷にテント持参で大勢がBBQのために集まり、観光客が激減していた京都にも人が集まっている姿が報じられていた。

 

報道では、コロナ疲れや自粛疲れと表現していた。

 

3連休でのこれらの行動は、自粛していた行動を元に戻したいという行動に感じられるとともに自粛に対する抑圧されていた反動という衝動性も感じられる。

 

衝動的な行動には思慮が欠けがちだが、そろそろコロナ後の自分自身や社会の変化を思慮深くイメージすることは必要だろう。

 

コロナ発祥の地とされる武漢では、連日新規感染者がゼロだと報じられている。

 

中国は、中国国内の感染が終息を迎えつつあると宣言したいところだろうが、そんな状況に対してウソだという指摘もあれば油断だという指摘もある。

 

終息が具体的にイメージできない時点では、3連休の日本のように『この程度だったら大丈夫だろう』という自己判断の先走り行動が目立ち、中国のようにそろそろ終息かなと感じられるようになると、その情報はウソや油断だと伝えられるようになる。

 

実際の発生から、発生が周知の事実になるのに、かなりの時間差が生じるように、終息も、実際に終息してから、終息が周知の事実になるまでには、かなりの時間差が生じると思われる。

 

さて、終息した後をどうイメージするだろうか?

 

すでに大きな損害を受けてる人たちは、その損害を取り戻したいと思う人も多いはずだ。

 

補償の話もあるが、期待してると裏切られるような気がしてる。

 

コロナ騒動の前の状態に戻ることが理想だという人も多いだろう。

 

一方で、コロナによる躓きで否応なく新しい何かを始めざるを得なくなる人も大勢いるはず。

 

コロナで顕著な被害を受けた方の中で、ウイルスそのものに冒された方を除くと、ビジネス的経済的な被害が大きいだろうが、それらは結果的にお客の側にも波及しているので、ビジネスを仕掛ける側が元に戻したいと思っても、お客の側は元に戻りたいとは思ってないかもしれない。

 

モノ不足が起きたことで、必要だと思っていたモノや欲しかったモノがない生活を余儀なくされた結果、それらが無くても困らないことに気付いた人もいるだろう。

 

断捨離やダイエットなんて無理だと思っていた人が、コロナのおかげで新しい価値観に目覚めたかもしれない。

 

エンドユーザーの価値観をコロナ騒動が変えてしまったとすれば、生産や物流が再開して供給が元の態勢に戻っても需要はついて来ないかもしれない。

 

物欲よりも体験欲や経験欲の方が高まりそうにも感じられる。

 

分かり切っていたはずの健康の有り難さを再認識した人も大勢いるはずだ。

 

それ以外にも潜在意識の中で芽生えた価値観の変化が数多くあるはず。

 

これらの意識の変化は、コロナ終息後少しずつ行動として顕在化するので、ビジネスを仕掛ける側が元に戻しただけだとジリ貧に向かう分野が出てくるはずだ。

 

グローバル化した経済のもとでは生産量が増えるほど価格は下がるが、そこには一定の需要と供給のバランスが前提になる。

 

一方その対極にあるとされるのがアートの世界で、需要や供給や製作コストと売り値の間には合理的な関係性はない。

 

しかし、たとえデマが理由であっても需給のバランスが壊れると、マスクやトイレットペーパーもアートの扱いになってしまうのだ。

 

 

わたし個人としては、一気に注目を浴びたテレワークのようなスタイルはコロナ後であっても一部に限定されると思っている。

 

 

コロナ後に大きく変化するのは、個人差があって当たり前のことであり、否応なく個性の差が出てしまう、人間が主役になれる分野だと思う。

 

グローバル化が結果的に普及させた人間の金太郎飴化の反動と言って良いかもしれないと感じている。

 

 

コロナ後に、元に戻ることしかイメージしてないと、需要や消費はどこかに消えたとしか感じられないかもしれない。

 

 

コロナ後の人生設計には、マイペースを貫く独りよがりではない楽観主義が重要だ。

似て非なるシンパシーとエンパシー!

日常で使用頻度が高い表現は、明快にその意味を表現する単語ができやすい。

 

明快な単語表現ができない場合は、文章で違いを表現せざるを得なくなる。

 

このような違いは日本語だろうと英語だろうと、あるいはどんな言語でもあるはずだ。

 

だから、日本語には存在する、違いを表現することばが、英語には無かったりすることは珍しくないし、逆も良くある。

 

 

SNSの流行のせいだろうか、時代のキーワードは共感だと言われる。

 

日本語では共感という単語に解釈の幅が与えられ、文脈に応じてその意味やニュアンスの違いを感じ取り区別するが、その際に微妙なすれ違いが起きることが珍しくない。

 

それに対して英語では、訳として共感の意味が与えられることばに複数の単語があり、それぞれが訳としては同じでも実際には違う意味を持っている。

 

共感の訳語でも大きく三つある。

 

シンパシー(sympathy)

 

エンパシー(empathy)

 

テレパシー(telepathy)

 

この三つは、同じようでありながら違っているが、重なり合ってる部分も感じられる。

 

 

ここから先は、シンパシーとエンパシーについて。

 

そんな重なり合いながらも違っている違いを表現してる話があった。

 

「シンパシー」とは「同情する気持ち」「共感する気持ち」ですね。 「エンパシー」は「共感する能力」「感情移入する能力」のことです。 で、普通は「可哀相な人に同情しましょう」「貧しい人に優しさを」と、「シンパシー」が強調されがちなんだけど、より大切なのは「エンパシー」の方だと、ブレイディさんは言います。

現実に格闘するブレイディさん親子の日常が感動的な理由/鴻上尚史

 

 

この話の中には『カウンターの中の論理』と名付けれた体験話も書いてあるので興味のある方は読んで欲しい。

 

 

さて、シンパシーが共感する気持ちに対してエンパシーが共感する能力だとすると、違いの本質は何になるのだろうか?

 

シンパシーは、かわいそうと感じる共感であり、『わかるよその気持ち』という同情がニュアンスとして強いが、その共感や同情が何かの具体的な行動につながったりはせず、一過性の感情で終わることが多いように感じられる。

 

一方エンパシーは、感情を揺さぶる(揺さぶられる)共感で、次の新たな行動につながる動機を形成しやすいと感じられる。

 

 

一見心地良いシンパシーで結ばれた人間関係は、実は結構ダラダラとした関係性で、目標を定めて協力するというような力を生み出しにくい、そのような関係性の中では切磋琢磨も起きないだろう。

 

こうやって書きながら初めて感じているが、過去の人間関係の中には、ことばは一致するのに行動が一致しない人が大勢いたような気がするが、それはわたし自身にシンパシーとエンパシーの違いを理解する能力が欠けていたからだと今さらながら思い知らされる。

 

噛み合っていない人気関係に過剰に期待したり期待されたりを繰り返していたのだろう。

 

忖度なんていうのは、究極の悪しきシンパシーなのだろう。

 

動機は形成されてないのに行動が要求されるのが忖度だから、苦痛を伴うのは当然だ。

 

忖度する者は、別の人に忖度させるだろうから、忖度には負の連鎖がつきものとなる。

 

忖度や同調圧力が機能する前提には過剰なシンパシーが隠れている。

 

 

共感し合ってるはずなのに、気持ちがすれ違うことは珍しくない、そんな時には人が分かり合うことは難しいと感じるし、それを養老孟司先生はバカの壁と表現していて、しょうがないものだと思っていたが、実はシンパシーとエンパシーを区別しないで共感と一括りにしていたからこその葛藤なのかもしれない。

 

このように考えていくとブラック企業やブラック労働のようなブラックな関係もシンパシーとエンパシーの違いを理解しないことが原因になってるのではと思えてくる。

 

 

やる気は動機に触発される。

 

やらなければいけないと分かっていても行動が伴わない場合には、動機につながるエンパシーがないだけかもしれない。

 

先ずは、シンパシーとエンパシーの区別から始めよう!

本当に儲かってる人は無口!

コロナウイルス騒動は、ダメージだけを社会に及ぼしてるようで、表向きには全く良いことがないように見えるが、投資の世界には裏目に賭ける逆張りという戦法はオーソドックスな定番戦法でもあることを考えると、きっとこの機に大儲けして笑いが止まらない人がいても不思議ではない。

 

ここでいう大儲けには、マスクやトイレットペーパーの転売のような次元の低い話は入らない。

 

 

今日こんなことを考えようと思ったのは、コロナウイルスでは手洗いや殺菌消毒が合言葉のように過剰に取り上げられる割には、除菌殺菌機能がある空気清浄機が注目される気配が感じられないことなどがキッカケでだ。

 

詳細は不明で想像するしかないが、中国の工場やサプライチェーンが機能停止したことで、作りたくても作れない、あるいは作ったものを発送することができないという事情でもあるのかなとも思ってしまう。

 

この想像が当たっているならば、『これをやれば儲かるぞ』ということも、思わぬ障害が起きていることも多いのだろうと思える。

 

 

そうすると、ウイルスで人の動きに制限が課されるような環境下では、人が介在する割合が少ないシステムが必須のように感じられる。

 

株の世界では相場が下がるタイミングでは空売りが注目されやすくなる。

 

投資対象である現物を所有せずに、対象物を(将来的に)売る契約を結ぶ行為である。商品先物外国為替証拠金取引でも用いられる用語だが、差金決済を前提としたこれらの市場では売り買いとも「空(から)」である事が前提であるため端的に売りショートと呼ぶことが多い。対象物の価格が下落していく局面でも取り引きで利益を得られる手法のひとつ。「信用売り」「ハタ売り」も同義語である。対義語は「空買い」。

 

 

この空売りのリスクは株価が上昇すること。

 

最近でも大きく下がった後に反発して上昇するのは、空売りを巡る攻防が展開されているのだろうなとわたしのような傍観者の目には映る。

 

バクチやギャンブルは宝くじと同じで、確実に儲かるのは胴元と決まっている。

 

胴元とは、今風に言うならプラットフォーマーとなる。

 

プラットフォーマーを幅広く捉えると、場の提供者となる。

 

ウイルスで人の動きに規制が掛けられると、さらに自粛という自己規制もプラスされると、リアルな場が機能しなくなる。

 

観光地や飲食店や各種のイベントがダメージを受けるのは、リアルな場が舞台だから。

 

もし、仮想の場が代替できるならば、シフトするのは自然な流れで、テレワークはその代表だ。

 

 

ところで、今回のコロナ騒動のようにあらゆるものが下げ相場の時は、上で書いたように胴元だけが儲かる。

 

胴元は、肝心要の情報を発信したりすることはない。

 

だから、儲かっていても儲かっているような様子は見せない。

 

ネット上ではさまざまな儲け話が発信され、一喜一憂する様子が発信されるが、これらの情報を発信してるのはプラットフォームの上で踊っているだけのプレイヤーに過ぎず、プラットフォーマーではない。

 

しかし、今回のコロナ騒動はプラットフォーマーにも影響を及ぼしてるかもしれないのだ。

 

 

 

但し、この話は事情通が発してるのであってプラットフォーマーが発しているのではない。

 

 

プラットフォーマーが直接発してる話としては2020東京オリンピックがある。

 

アスリートの祭典と呼ばれるオリンピックでは大きく四つの立場(≒利害)が絡み合っている。

 

2020東京オリンピックならば、プラットフォーマーとしてのIOCやJOCの側、オリンピックに参加するアスリートの側、協賛してるスポンサー企業の側、観客であり傍観者の側の四つ。

 

 

目前に迫ったオリンピックでもプラットフォーマーが揺らいでいる。

 

五輪「違うシナリオ検討」 IOCのバッハ会長 2020/3/20

バッハ会長は「われわれも他のみんなと同様に、危機の影響を受けている」と認めた。

 

 

プラットフォーマーがネガティブな発言をする場合は、本当にピンチだと感じているからだ。

 

 

今、本当に儲かってる人は決して『儲かっている』とは言わないし、関連する情報は発信しない。

 

逆に言うと、今『これをすれば儲かる』と言う話はすべてウソだと思って良いはずだ!

 

一見客とリピート客と常連客の違い!

コロナウイルス対策として、テレワークや一斉休校が実施され、外出の自粛が浸透すると、人の流れが目に見えて変化するようになった。

 

人が多勢集まる場所から人が消滅したのだ。

 

人が集まっていたあらゆる場所から人がいなくなっている。(ごく一部に例外はあるかもしれないが)

 

人が消えた場の代表として観光地を例にすると、観光地でのビジネスや観光客を相手にするビジネスが大きなダメージを受けている。

 

観光地を訪れる観光客は、一般的にはその時だけの一見客としてカウントされるはずだ、しかし実際には何度も訪れてる人も少なくないかもしれない。

 

そんな何度も訪れる人は常連客と呼ばれるかというと、なんか違う気がする。

 

常連客として呼ばれるのは、その観光地の特定のホテルや飲食店を頻繁に利用し、ホテルや飲食店のスタッフから『いつも来るお客様』として認識されて初めて自他共に認めるリピート客として定着し、リピート客のごく一部が常連客となるような気がする。

 

その違いはというと、リピート客は片思いでも成立するが、常連客は両思いじゃないと成立しない気がする。

 

リピートされる側も相手のプロフィールを認識し、かつ訪れることを歓迎されることで常連客に昇格できるのだ。

 

常連客とお店(店でなくても構わないが)の関係は親しい人間関係なのだ。

 

常連客で成り立ってるお店では、嫌がられるリピート客や一見客がいた場合、すべてのお客が平等にもてなされるわけではなく、客の中にも対立が発生し、店は常連客を守ろうとする。

 

 

一方、お店の側がビジネスとしてしか捉えていないとどんなにリピートしてもただのヘビーユーザーに過ぎず、チェーン展開してる店だとお客とスタッフがどれだけお互いを認識し合っていても、関係性はリピート客を超えることはないので、お客はどんな方でも扱いは平等になる。

 

 

リピート客や一見客は求めても常連客は求めないビジネスでは、客単価と回転率を求めるようになる。

 

 

常連客でもってる店の場合、お客が店での居心地の良さを維持したいので勝手に店の経営状態を慮り、回転率で勝負できないので可能な範囲で客単価を上げようとしてくれる。

 

 

医は仁術という諺がある、この場合の仁術の反対語は算術。

 

 

リピート客や一見客を求める店では、店側が客を算術の対象にするのに対し、常連客の店では算術は客が担うのだ。

 

常連客のお店の経営方針は仁術なのだ。

 

 

観光地を訪れる客は楽しさや気持ち良さを求めて訪れるのだが、そんな客を迎える側が本音がビジネスライクであれば、思いはすれ違っていると言って良いはずだ。

 

今になって感じられるのは、2020東京オリンピックの誘致のキーワードだったおもてなしは、すれ違いを象徴していたなということ。

 

 

おもてなしにもさまざまあり、手厚くもてなされることを期待する人もいれば、静かにしてあまり構って欲しくない人もいる。

 

この違いを間違うとリピートは繰り返されなくなる。

 

 

観光地をイメージすると分かりやすいが、人が集まる場では全てに基本は共通するはず。

 

さて、図らずもコロナのおかげで一旦リピートが寸断されてしまったのだが、人の動きや流れが戻った時に、以前と同じことを繰り返すことがリピート客を呼び戻すことに役立つのか、それとも、多くの人のメンタリティが変化したであろうことを考えて、それに対応する模索を行うのか?

 

客商売にも静かだが大きな変革が訪れるはずだ。

 

 

今一度、一見客とリピート客や常連客について考えるタイミングだ。