世間の3連休の過ごし方に変化の兆しが感じられた。
自粛要請されていたK -1の大会が6500人を集めて実施された。
桜の名所には大勢の人が集まり、BBQが禁止されている河川敷にテント持参で大勢がBBQのために集まり、観光客が激減していた京都にも人が集まっている姿が報じられていた。
報道では、コロナ疲れや自粛疲れと表現していた。
3連休でのこれらの行動は、自粛していた行動を元に戻したいという行動に感じられるとともに自粛に対する抑圧されていた反動という衝動性も感じられる。
衝動的な行動には思慮が欠けがちだが、そろそろコロナ後の自分自身や社会の変化を思慮深くイメージすることは必要だろう。
コロナ発祥の地とされる武漢では、連日新規感染者がゼロだと報じられている。
中国は、中国国内の感染が終息を迎えつつあると宣言したいところだろうが、そんな状況に対してウソだという指摘もあれば油断だという指摘もある。
終息が具体的にイメージできない時点では、3連休の日本のように『この程度だったら大丈夫だろう』という自己判断の先走り行動が目立ち、中国のようにそろそろ終息かなと感じられるようになると、その情報はウソや油断だと伝えられるようになる。
実際の発生から、発生が周知の事実になるのに、かなりの時間差が生じるように、終息も、実際に終息してから、終息が周知の事実になるまでには、かなりの時間差が生じると思われる。
さて、終息した後をどうイメージするだろうか?
すでに大きな損害を受けてる人たちは、その損害を取り戻したいと思う人も多いはずだ。
補償の話もあるが、期待してると裏切られるような気がしてる。
コロナ騒動の前の状態に戻ることが理想だという人も多いだろう。
一方で、コロナによる躓きで否応なく新しい何かを始めざるを得なくなる人も大勢いるはず。
コロナで顕著な被害を受けた方の中で、ウイルスそのものに冒された方を除くと、ビジネス的経済的な被害が大きいだろうが、それらは結果的にお客の側にも波及しているので、ビジネスを仕掛ける側が元に戻したいと思っても、お客の側は元に戻りたいとは思ってないかもしれない。
モノ不足が起きたことで、必要だと思っていたモノや欲しかったモノがない生活を余儀なくされた結果、それらが無くても困らないことに気付いた人もいるだろう。
断捨離やダイエットなんて無理だと思っていた人が、コロナのおかげで新しい価値観に目覚めたかもしれない。
エンドユーザーの価値観をコロナ騒動が変えてしまったとすれば、生産や物流が再開して供給が元の態勢に戻っても需要はついて来ないかもしれない。
物欲よりも体験欲や経験欲の方が高まりそうにも感じられる。
分かり切っていたはずの健康の有り難さを再認識した人も大勢いるはずだ。
それ以外にも潜在意識の中で芽生えた価値観の変化が数多くあるはず。
これらの意識の変化は、コロナ終息後少しずつ行動として顕在化するので、ビジネスを仕掛ける側が元に戻しただけだとジリ貧に向かう分野が出てくるはずだ。
グローバル化した経済のもとでは生産量が増えるほど価格は下がるが、そこには一定の需要と供給のバランスが前提になる。
一方その対極にあるとされるのがアートの世界で、需要や供給や製作コストと売り値の間には合理的な関係性はない。
しかし、たとえデマが理由であっても需給のバランスが壊れると、マスクやトイレットペーパーもアートの扱いになってしまうのだ。
わたし個人としては、一気に注目を浴びたテレワークのようなスタイルはコロナ後であっても一部に限定されると思っている。
コロナ後に大きく変化するのは、個人差があって当たり前のことであり、否応なく個性の差が出てしまう、人間が主役になれる分野だと思う。
グローバル化が結果的に普及させた人間の金太郎飴化の反動と言って良いかもしれないと感じている。
コロナ後に、元に戻ることしかイメージしてないと、需要や消費はどこかに消えたとしか感じられないかもしれない。
コロナ後の人生設計には、マイペースを貫く独りよがりではない楽観主義が重要だ。