違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

政治と芸能エンタメの関係!?

この半年で、コロナ対策のための自粛のせいでエンタメ界はズタボロ状態になり、その結果芸能界からは多くの不満の声が上がり、その多くが政治のあり方に対するものだった。

 

不満の声を上げたのは演劇など舞台が現場になる人たちが多かったように感じられた。

 

出演者や関係者の数が多い現場では、ごく一部の有名人や著名人と大多数の世間的には無名な人たちで構成されていて、その待遇や収入には大きな格差がある。

 

不満の声が大きかったのは、無名な人からよりも、無名な人を慮った有名人や著名人が多かったように感じられた。

 

芸能エンタメと政治の結びつきは、叙勲や園遊会など華やかで晴れがましい公的な場が似合うが、一般人は報道でしか縁がないような場なので、日常では芸能エンタメ界と政界は強く結びついてるとは思い難かった。

 

一方で、エンタメ界と政治といえば風刺に関しては相性が良いせいかお笑いの分野では結びつきが感じられ、お互いにその存在を意識し合ってることが感じられることが多い。

 

 

コロナを巡って、それまでとは違うエンタメ界と政治の関係が見えたことに続いて、安倍首相の辞任がきっかけで新たに違う側面を見せ始めた。

 

 

最近では珍しい話ではないのかもしれないが、芸能界の上層部と政治はこのように結びついているのかと思わせてくれる話題が上がっていた。

 

 

芸能界にもアベノショック…松任谷由実、会見見て「泣いちゃった。切なくて」

「私の中ではプライベートでは同じ価値観を共有できる、同い年だし、ロマンの在り方が同じ」と明かし、「辞任されたから言えるけど、ご夫妻は仲良しです。もっと自由にご飯に行ったりできるかな」

 

 

この発言のおもしろさは『同じ価値観を共有できる』と『同じ年だし』が、生き方の類似性というポジショントークになっていることで、良かれと思って言ったことばが世間の不快感を煽ったことにある。

 

 

 

 

露骨に不快感を示す芸能人もいた。

 

 

薬丸裕英、安倍首相の健康問題を質問したテレ朝記者への麻生財務相の対応に憤慨…「何様って思います、この方…これが一番醜い」

 

 

薬丸さんには失礼だが、こういう発言ができたのは売れっ子ではないからで、そういうことを伝える記事があった。

 

安倍晋三首相、ジャニーズさえも「政治利用」した芸能界との奇妙な関係性

歌手の小泉今日子は、東京高検検事長の賭けマージャン騒動の際、安倍首相を同情し「こんなにたくさんの嘘をついたら、本人の精神だって辛いはずだ。政治家だって人間だもの」と、書家の相田みつをばりにツイートした。

 

演出家でタレントのラサール石井は「トップの評価は長時間働いた事より『どんな仕事をしたか』で決まる」と、最近こき下ろしたばかりだ。

 

さかのぼればタレントのマツコ・デラックスは「安倍ちゃんなんてバカの象徴じゃない?」(2017年TOKYO MX『5時に夢中!』)

 

 

タレントのほっしゃんは「安倍さん。お辞めください!」と、加計学園の問題が噴出した際、辞任を迫ったことがある。その際、こう付け加えることを忘れなかった。

 

「売れっ子さんは誰も言われへんて」。

 

 

 

売れている人間は、えてして体制べったりになりがちだが、売れっ子たちは安倍首相に近寄り、それが逆に人気取りに利用された。

 

ジャニーズ事務所のTOKIOのメンバーは安倍首相とピザを食った。

 

俳優の大泉洋と高畑充希は首相官邸に招かれ会食をした。

 

ダウンタウンの松本人志や東野幸治、指原莉乃らフジテレビ系『ワイドナショー』の出演者も、安倍首相と飯を食った仲。

 

安倍首相自ら吉本新喜劇の舞台に出演し、耐えられない軽さを見せつけたこともあった。

 

 

 

政治と芸能やエンタメの分野はどういう関係なのだろうか?

 

 

現代のように多様化した時代になると政治とエンタメは別ジャンルに感じてしまうが、エンタメの源を遡ると祭りに行き着くような気がする。

 

そして、祭りの由来を遡ると、祈りや願いに行き着くような気がしてくる。

 

祈りや願いの場には、政治と宗教がつきもの。

 

なるほど、政治と芸能界やエンタメは相性が良いはずなのだ。

 

コロナでエンタメ界が大打撃を受けてる様子から改めて分かることは、エンタメがエンタメとして機能するためには社会が安定してることと、そこそこレベル以上に景気の良さが実感できることが肝心だということ。

 

その条件が満たせなくなると、政治と芸能やエンタメは対立関係に陥るのだ。

 

 

政治と芸能やエンタメが一体化する様を頭に思い描くと、ヒトラーの大衆扇動術そのものになってしまう。

 

 

  • 大衆は愚か者である。
  • 同じ嘘は繰り返し何度も伝えよ。
  • 共通の敵を作り大衆を団結させよ。
  • 敵の悪を拡大して伝え、大衆を怒らせろ。
  • 人は小さな嘘より、大きな嘘に騙される。
  • 大衆を熱狂させたまま置け。考える間を与えるな。
  • 利口な人の理性ではなく、愚か者の感情に訴えろ。
  • 貧乏な者、病んでいる者、困窮している者ほど騙しやすい。
  • 都合の悪い情報を一切与えるな。都合のよい情報を拡大して伝えよ。
  • 宣伝を総合芸術に仕立て上げろ。大衆の視覚・聴覚を刺激して、感性で圧倒しろ。

 

 

きっと、芸能界を見てるとその時代の政治を読み解く重要なポイントが見えてくるはずだ。

突然消えたように感じられるものは時間をかけてゆっくり消えている!

交通機関の発達が、距離をkm単位でイメージするよりも、何分で行ける場所なのか、あるいは何時間あれば到着できるかという、時間を尺度にする方がイメージしやすくさせた。

 

交通機関の場合、物理的なサイズの制約は受けるが、身体プラス手荷物のレベルに関してはほとんど制約を受ける事はなくなった。

 

さらにインターネットの発達は、デジタル化できる情報に関しては時間や距離の束縛から完全に解放した、具体的には文字や映像だ。

 

 

場所の制約を受けなくなったことが加速させたのがグローバル化だ。

 

Made  in 〇〇が大した意味を持たなくなった背景には、実際に作っているのが人間ではなく機械になったことも大きいだろう。

 

 

ここまでは、時間の経過とともに出来なかったことが出来るようになった結果生じた変化。

 

この変化のプロセスでは、あったはずのものが無くなり消えていくということも起きていた。

 

このような消えていく変化は、自然と発生する需要減と関係するので、消えていく途中のプロセスに気付かないことも多い。

 

 

さて、これから起きる変化の中には、無くなって消えたものや受け継がれなかったテクノロジーの方が、合理性が高かったと思えるものが出てくるかもしれない。

 

それらは、アナログな存在であり、人の手を必要とするもののはずだ。

 

無くなって消えたものを望むようになった時には、受け継がれなかった技術をゼロから作らなければいけなくなる。

 

ピラミッドなどの古代遺跡にもそれが感じられる。

 

 

お金を払えば出来ていたことが、コロナのせいで出来ない不自由を強いられてるが、これは一時的に出来ないだけで消えて無くなったわけではない、今のところは。

 

コロナが蔓延したことで交通機関や宿泊関連が大ダメージを受けたことで、人間の物理的な移動が大ダメージを受けているが、インターネットを介したデジタル情報の移動に関してはほぼ無傷。

 

人間活動を中心にした場合、情報は自在に行き来できるのに、物理的に人間が行き来する事は当分自由ではなくなることがほぼ確実になった事で、このアンバランスがどんな影響をもたらすのかが気になるところだ。

 

広がる一方だった場所や空間に対する意識が、急に一部が閉じることを余儀なくされたことで何が起きるのかがこれから明らかになってくるはず。

 

想像されてるようなことと違うことが起きるかもしれない、それは想像すら出来なかったことになるかもしれない。

 

学校のあり方が一瞬にして大きく変わったことは、想像すら出来なかったことの一つと言えるだろう。

 

 

コロナと他の歴史上の疫病の違いは、医学のレベルや死者の数の違いなどよりも、生活やビジネスの背景にデジタルがあるかないかの違いだと感じる。

 

デジタルがない時代では、全ての行動が対面が原則で、そのために物理的な移動が必要で、そのために時間の制約を強く受けてきた。

 

デジタルを維持管理発展させるためにはテクノロジーの向上も必要だが、それ以上に必要なのが潤沢なエネルギーで、直接的には電気の比重が高いが、その電気をどうやって生み出してるかというと多様性があり、その多様性が仇となって地球環境は生き物にとって好ましくない方向に向かっている。

 

 

地球規模で見ると現在の人間活動の前提はグローバル化で、日本の場合エネルギーの自給自足ができないので、大事なことは常に世界の顔色を伺うことを余儀なくされている。

 

総理大臣が辞任したからと言って、日本国内のドメスティックな問題とでは済まないのだ。

 

万年与党と万年野党の違いの差はこの辺に現れるが、エネルギーを自給自足できない以上、ドメスティックな舵取りだけではたかが知れてるのだ。

 

誰が新総理に相応しいかを考える前に、エネルギーの自給自足について対策できないと日本の独立性は担保できないのだ。

 

同じことが日本で生きてる国民一人一人にも当てはまるはず。

 

もともと災害大国なので自給自足意識は高かったはずなのに、気が付いたらそういう意識は消えている。

 

しようにも、もはや出来なくなっているのだ。

 

 

歴史を振り返ると突然消えたように見えるものは、突然消えたわけではなく、時間をかけてゆっくり消えていったことが想像できる。

100均から始める多肉植物や珍奇植物のおもしろさ!?

8月に入ってから密かに興味を持っていたのが多肉植物や珍奇植物。

 

代表格で誰でも知ってるものとしてはサボテンがあるが、不思議な形や見慣れない形をしてるものは大抵これらのジャンルのどこかに位置付けられている。

 

本当は動物や動く生き物に関心があり、その観察記録などを作ってみたいと思い始めたのだが、どう考えても面倒を見続けることにハードルの高さを感じていた。

 

そこで植物に目を付けたのだが、その時に初めて世間で盆栽などが流行る理由も分かる気がした。

 

しかし、一般的な盆栽や一般的な花や植物はなんだか違うなと思っていると、珍奇植物というジャンルがあり、その中でも多肉植物というジャンルが一種の擬似盆栽ブーム化してるということを知り、『これだ』と感じられた。

 

ただこの夏の猛暑の中で植物に手を染めるのに少し抵抗があったが、多肉植物の中には夏は休眠期で秋から活発になるものが多いらしいので、秋の始まりの前にスタートする方が良いかもと思っていた。

 

植物だからと言ってほったらかしで勝手に成長するわけではなく意外と手間もかかるし注意点も多いことも、ツボにハマると楽しさを助長する要素だと思えてきた上に、最近では100均でも売られてると知ったのでコストもかからなそうだしやってみるかと昨日ダイソーで必要そうなものを買い揃えた。

 

買ったものは全部で6点で総額660円。

 

ダイソーで買ったもの①②③

 

①ヤマトヒメと名が付いた多肉植物で直径が5cmほどで、調べると多肉の世界ではエケベリアと呼ばれているとわかった。

 

②鉢(底面には水抜きの穴も開いている)

 

③鉢の下に置く受け皿(3枚セット)直径9,9cm

 

 

ダイソーで買ったもの④⑤

 

水捌けをよくできる粒の大きな土を二種類。

 

④赤玉土(粒が大きくて鉢の下に敷く)

 

⑤鹿沼土(根の周りに敷く)

 

⑥ピンセット(画像は別で)

 

 

植え替えのためにヤマトヒメを鉢から取り出し、根のまわりに付いてる土を優しくほぐす。

 

 

根をほぐす ダイソーで買ったもの⑥

 

土をほぐしたら、根の上の傷んだり枯れてる本体の部分をピンセットで摘みながら取る。

 

ピンセットで傷んだ部分を取り去る

 

 

ここまでの作業が済んだら新しい鉢に植えるだけ。

 

 

植え替え完了

 

 

ネットで検索すると、植え替え直後には水は与えてはいけないとあり、最初の水やりは1週間後が目安と出る。(少し不安)

 

育てるにあたっていろいろと注意点が多いのだが、全てダイソーで揃えたこともありストレスは少ないが、これでうまく育てられないようだと人間としてダメ出しされるようなプレッシャーも感じてる。

 

 

さて、本来の目的は観察記録を取ることだし、できれば映像として残したいと思っている。

 

頭に描いているのは、1日に1枚写真を撮り、その写真をタイムラプス的なスライドショーにして成長や変化を連続的に表現してみたいと思っている。

 

そのためには撮影の仕方や位置が重要になるので昨夜いろいろ試してみたがこれまた気を使うポイントが多い。

 

明るさは一定の方が良いから夜照明の下で行う方が良いと感じてる。

 

また背景も無地の方が良いだろうと空箱にコピー紙を立てかけて何度も撮り、とりあえずこの位置で撮ろうかと決めたのが次の写真。

 

観察撮影

 

 

できることなら上(俯瞰)からも撮ってみたいが、照明の工夫も撮影の工夫も数段高いレベルが要求されることが分かって、せいぜい斜め上からが精一杯だし、撮影位置を安定させるのも難しいと感じてる。

 

観察撮影(俯瞰)

 

 

俯瞰写真は安定的に撮影できるのか今夜以降試してみたい。

 

 

 

たったこれだけのことなのに、新たな楽しみができたようなワクワクが感じられる。

 

改めてダイソーをはじめとした100均ってすごいなと感じてる。

 

店によっては扱ってないのだが、扱ってる店には多様な種類が置いてあるので、最初の第一歩には最適だと感じてるが、多肉植物のコーナーにいるととにかく女性が多かった。

責任感という無責任!

安倍総理が突然を装いながら予定通り(≒噂通り)辞任した、と感じた。

 

わたしは安倍総理(≒安倍政権≒安倍自民)が好きではないので、やっと辞めてくれたと一瞬思ったが、これで大きな流れとしての何かが変わるだろうか?、とも感じた。

 

先頭に立って発言する姿を見てると、見てる側には個人的な価値観や思いを貫いているように見えるが、本当にそうだったのだろうかと改めて思えてくる。

 

誰でも心当たりがあるかもしれない、純粋に自分のことを喋っているのに、喋りながら『なんか違うんだよな〜』と感じることが。

 

断言したり断定したりしても、それは条件次第でコロコロ変わる可能性を秘めてることに自分で気付いていることは珍しくはない。

 

純粋に個人的なことでもそのようなことがあるのだから、仕事や立場上で発言するような場合にはさらにそのようなことは多いはずだ。

 

 

仕事や立場上で発言するような場合、どこまで意識してるかは人それぞれだろうが、自分の考え以外に大義名分のような世間と同調するような考えも選択肢として持つはず。

 

 

そして、いざ発言する段階になると責任感なるものに囚われるだろう。

 

 

責任感とは、他人の目や他人の利害を意識しての自縄自縛を意味する。

 

 

なんでも自由に言い合おうとスタートした話し合いでも、『これは言ったらマズイよな』というブレーキや、『これは言わねば』というアクセルは働く。

 

このような場合のブレーキやアクセルは最近風に言うところの忖度や同調圧力に非常に近いものが珍しくないと感じられる。

 

責任感があるとか無いというのは、自分で自分を評価するというよりも、周りにいる他人が評価するもので、字面から受けるイメージと違って曖昧で弱々しいと感じる。

 

 

自分のプラスになることに尽力する人は責任感が強く見え、自分にとってマイナスになることに尽力する人は無責任だと見える。

 

プラスやマイナスが色濃く現れるのは、強い利害関係が生じる場だ。

 

 

今年のコロナの発生で医療従事者は、責任感で身も心もすり減ってるかもしれない。

 

ある医者がTwitter上で次のようなことを言っていた。

 

以前救急の現場で働いていて、それこそ責任感を感じながら一切手を抜くことなく働いた結果限界を越え、救急の現場から去った。

 

自分が去った現場が苦労することは分かっていたが、それは自分には関係ない、と考え方が変わった。

 

 

責任感にはこのような側面があり、自分の意思で動いているようで実は他人の意思に迎合してるだけということがある。

 

 

生きることに辛さがある場合、責任感に潰されかけているのかもしれない。

 

 

安倍総理の辞任の背景に見え隠れする責任感は、を意識してのものだったのだろうか?

 

は個人でもあり組織でもあり時には国家でもあるだろう。

 

 

いずれにしてもそんな誰かの利害を巡って責任感が行使されるのだ。

喜怒哀楽の『怒』は、そのままでは狂気であり凶器でもある!

なるほどと思えるツイートが流れてきた。

 

 

 

言われてみればその通りで、アンガーマネジメントなることばがあるところを見ると、『怒』は厄介者扱いされてることがよく分かるが、『怒』がキッチリとマネジメントされると名作とされる各種の物語や小説や映画やドラマの多くが全く成り立たないかもしれない。

 

 

怒りが他の感情(喜哀楽)に比べて厄介とされる背景には何があるのだろうかと思っていると、次のようなことばがあった。

 

「怒りは誰もが経験する感情だ。怒りが重大な懸念事項となるのは、それがあまりにも頻繁に、強烈に、長い時間、発生し続ける場合だけだ。」- レイモンド・W・ノヴァコ(1984年)

 

これまたなるほどと思わされた。

 

『頻繁に、強烈に、長い時間』喜びや楽しいが続くことはあり得ないように思えるのに対し、怒りや哀しみにはそれがある。

 

さらに、喜びや楽しいが続いた場合、後から生じる喜びや楽しさほどよほど大きなインパクトがなければ予定調和化し不感症になりそうだが、怒りや哀しみは何度か続くと、後から生じる怒りや哀しみほど小さなインパクトでもさらに重くのしかかってくるように作用する。

 

アンガーマネジメントが生まれた背景には、怒りが慢性化して世間に溢れたからと考えると、そこには時代性が感じられる。

 

穏やかそうに振る舞っている人ですら、腹の底にはグツグツと沸る怒りがあるかもしれない。

 

では、怒ってる人は何に対して怒っているのか?

 

怒りが爆発するための引き金になる出来事はあるにしても、その結果以前から溜まっていたメタンガスのような怒りの蓄積が一気に爆発すると、自分も含めて周りにも大きな害を及ぼすようになる。

 

怒りは燃料であり兵器なのだ。

 

上手に使わなければならないし、上手にコントロールされなければいけないのだ。

 

怒りが厄介なのは、極めてパーソナルなものなので、真の共有や共感が実は困難なのだ。

 

社会に共通する出来事に対して、怒りを感じるのが多数派で、それが政治に関係してる場合でも簡単に改善できないのは、多くの人の怒りがバラバラなままで一体化しないからだろう。

 

怒りは強力な燃料であり兵器なのだが、それだけでは食べることができないのだ。

 

は有効活用するためには別のものに変換する必要がある。

 

 

2014年に青色発光ダイオードでノーベル物理学賞を受賞した中村修二さんは次のように語っていた。

 

 

偉い人たちに『お前はカネの無駄遣いをしやがって!』と、けちょんけちょんに言われ頭にきて、『青色発光ダイオードをやらせてくれ』と言って、OKが出ておカネをもらえた。怒りを原動力にしたら青色発光ダイオードができた……(中略)……私は四国から出たことがない。高校まで愛媛で大学は徳島大学。卒業したら徳島の田舎の企業に就職し、今カリフォルニアに来ている。好きなことを選んで情熱を持って仕事をすればノーベル賞をももらえる。私をいい例にすればいいと思います。学歴とか関係なく、本人のやる気がいちばんだと思います。

 

 

このことばを額面通りに信じるならば、怒りは好きなことに変換できると良いのかもと思える。

 

怒りを感じた時は、その矛先を直接相手に向けてはいけないのだ。

 

現代では怒りに起因するさまざまなトラブルが日常茶飯事だが、そろそろ学習した方が良いかもしれない。

 

怒りは正義感や正論と結びつきやすいが、それは愚か者のリアクションなのだ。

 

怒りが原因で起きるトラブルに正義感や正論で反応しても外野の観客を楽しませるサスペンスエンタメにしかならないのだ。

 

 

 

怒とはとても不思議なもので純度が高い。

 

恋愛で相手に愛してると伝えるそのことばの純度の薄さに比べたら、怒の純度には混じり気が感じられない。

 

純度が高いと水も毒になる。

 

 

怒に限らないかもしれないが、純度が高い感情は狂気であり凶器なのだ。

いよいよ新幹線の貨物利用が始まるか!

ついに新幹線の貨物利用が始まったのかと感慨もひとしおのニュースが流れていた。

 

 

 

この話は、コロナで大打撃を受けている新幹線をなんとかしたいという思いからだろうが、そのスピード感はなかなかのものと言えそうだ。

 

新幹線を貨物利用するための最大のネックは、新幹線専用の貨物車両を新たに作るとなるとコストと時間の点で課題が大きく、既存車両を使うとなると乗客専用に作られた狭い出入り口を通せるものしか運べないという点。

 

コスト的には既存車両から座席を取っ払う方が現実的だろうが、そうすると、出入り口の大きさから必然的に梱包サイズは限定されるだろう。

 

 

都市と都市を結ぶ新幹線が普及したことでローカル線はますます収益的に疲弊してるし、自然災害等で線路や鉄橋がダメージを受けた場合、それを機に廃止を余儀なくされるものが増えている。

 

JR各社は新幹線に頼る傾向が強いのだ。

 

しかし、旅客が順調な時には新幹線のダイヤに物流を割り込ませるのは運用上の課題も多かっただろう。

 

しかし、コロナのせいでドル箱の新幹線ですら客がいなくなって回復の時期も不明になると、その穴を埋めるために新幹線貨物は一気に現実性を帯びてくる。

 

 

別の背景としては、トラックを中核とする物流界では運転手の高齢化や運転手不足や過酷な労働を強いられてることだけでなく、高速道路や幹線道路のキャパシティもあり、新幹線貨物は期待されていたのだ。

 

 

 

 

元佐賀市長で現在福岡大学で経済学部の教授をしている木下敏之さんは九州経済のためにも新幹線貨物を実現させたいとずっと主張していて、次のように語っていた。

 

コロナが発生したから言い始めたわけではないのだ。

 

ここには新幹線貨物を実現するために必要なことが書かれている。

 

JR東日本で進む新幹線貨物構想  2019年07月11日

 

木下敏之さんは、新幹線貨物は都市のためというよりは、地方のために必要だと説いている。

 

 

冒頭で紹介したツイートは東北新幹線(JR東日本)を使った貨物の話だったが、九州でも具体化が見え始めているらしいという記事が出ていた。

 

JR九州、佐川急便と「貨物混載」の実証実験 九州新幹線で鮮魚など高速輸送  毎日新聞2020年8月27日

 

 

地方が頑張る話は多いが、久しぶりにインパクトがある話だと感じられる。

 

もし新幹線貨物が軌道に乗るならば、コロナのダメージを逆手に取ったものとして画期的だと言えそうだ。

移民や外国人労働者の復讐が始まっている!

セキュリティも高度化し、各種の盗難対策も施されてるなかで起きる最近の盗難には、その規模から内部事情に精通してる人が絡んだ組織性が感じられるものが多い。

 

少し前だったら、日本人の同業他者が最も疑わしかったが、最近では外国人の存在も見え隠れする。

 

コロナのせいかどうかは不明だが、わたしの目には特に今年は多いような気がする。

 

ニュースで取り上げられたものをあげると、

 

 

 

 

栃木で子牛窃盗、群馬県では子豚など670頭盗まれる被害 8/25(火)

 

 

メロン 約200個盗難「できることなら返して」北海道 厚沢部町

 

 

規模の大きな盗難は空腹を満たすためではなく転売が目的であることは明らかだ。

 

農作物の場合、ターゲットとなる作物の旬や生育状況を理解していなければ価値を最大化することはできない。

 

盗んだものを捌くためには裏のルートや闇のルートが必要という意味ではサスペンスの世界になる。

 

盗難の直接の当事者以外は、盗まれたとは知らなかったという善意の第三者というアリバイを整えてるつもりになってるのだろう。

 

おれおれ詐欺の主犯がなかなか捕まらないのと同じ構造が見える。

 

おれおれ詐欺の現場で直接犯罪に手を染める者の多くは、世の中や世間に恨み辛みを持っていて、その気持ちを利用されてるのだが、この構造が外国人にも当てはまっているようなのだ。

 

日本に対して、自分の雇用主に対して恨み辛みを持ってるであろう存在として外国人技能実習生がいるのだが、政治が絡むせいか本当の真実は明らかになりにくいので想像するしかない。

 

街で見かける外国人の見た目がバリバリのビジネスマンだったらなんの違和感も感じないかもしれないが、そうではない種類の人を見た場合にどんな印象を持つだろうか?

 

わたしは、理不尽にこき使われてるんだろうなと思うし、もう少し日本について調べていたらきっと日本には来なかったんだろうなと思ってしまう。

 

 

そのような日本に恨み辛みを持つ外国人が巧みに利用されてるんだろうなと、最近の事件に感じる。

 

 

内部の事情に精通してる人物が関係してるんだろうなと今年感じた最初の事件がこれだった。

 

新型コロナで休館中にゴッホ絵画が盗難 オランダの美術館  2020.3.31

 

 

今だったら恨みを持った外国人労働者で内部事情に精通した者が絡んでいたのかもと感じる。

 

オランダの美術館の事情にどのくらい当てはまるかは不明だが、オランダを含めてヨーロッパの移民政策は失敗だったといわれている。

 

オランダの食肉処理場で新型コロナ集団感染 背景に外国人労働者が抱える問題も 6/6(土)

 

外国人が悪いのではなく、その使い方が問題なのだが、この問題はいずれ自国民にも及んで来るのかもしれない。

 

大きな流れでは移民に頼るしかないと人手を必要とする業界は考えているようだが、そのような業界は移民からの復讐が始まっている。