安倍総理が突然を装いながら予定通り(≒噂通り)辞任した、と感じた。
わたしは安倍総理(≒安倍政権≒安倍自民)が好きではないので、やっと辞めてくれたと一瞬思ったが、これで大きな流れとしての何かが変わるだろうか?、とも感じた。
先頭に立って発言する姿を見てると、見てる側には個人的な価値観や思いを貫いているように見えるが、本当にそうだったのだろうかと改めて思えてくる。
誰でも心当たりがあるかもしれない、純粋に自分のことを喋っているのに、喋りながら『なんか違うんだよな〜』と感じることが。
断言したり断定したりしても、それは条件次第でコロコロ変わる可能性を秘めてることに自分で気付いていることは珍しくはない。
純粋に個人的なことでもそのようなことがあるのだから、仕事や立場上で発言するような場合にはさらにそのようなことは多いはずだ。
仕事や立場上で発言するような場合、どこまで意識してるかは人それぞれだろうが、自分の考え以外に大義名分のような世間と同調するような考えも選択肢として持つはず。
そして、いざ発言する段階になると責任感なるものに囚われるだろう。
責任感とは、他人の目や他人の利害を意識しての自縄自縛を意味する。
なんでも自由に言い合おうとスタートした話し合いでも、『これは言ったらマズイよな』というブレーキや、『これは言わねば』というアクセルは働く。
このような場合のブレーキやアクセルは最近風に言うところの忖度や同調圧力に非常に近いものが珍しくないと感じられる。
責任感があるとか無いというのは、自分で自分を評価するというよりも、周りにいる他人が評価するもので、字面から受けるイメージと違って曖昧で弱々しいと感じる。
自分のプラスになることに尽力する人は責任感が強く見え、自分にとってマイナスになることに尽力する人は無責任だと見える。
プラスやマイナスが色濃く現れるのは、強い利害関係が生じる場だ。
今年のコロナの発生で医療従事者は、責任感で身も心もすり減ってるかもしれない。
ある医者がTwitter上で次のようなことを言っていた。
以前救急の現場で働いていて、それこそ責任感を感じながら一切手を抜くことなく働いた結果限界を越え、救急の現場から去った。
自分が去った現場が苦労することは分かっていたが、それは自分には関係ない、と考え方が変わった。
責任感にはこのような側面があり、自分の意思で動いているようで実は他人の意思に迎合してるだけということがある。
生きることに辛さがある場合、責任感に潰されかけているのかもしれない。
安倍総理の辞任の背景に見え隠れする責任感は、誰を意識してのものだったのだろうか?
誰は個人でもあり組織でもあり時には国家でもあるだろう。
いずれにしてもそんな誰かの利害を巡って責任感が行使されるのだ。