違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『絶賛』にウンザリする今日この頃

いつの頃からか気になるようになったのが、タイトルや見出しに付けられた『絶賛』の文字。

 

ついつい見たくなるマジックワードなのだろうか?

 

以前は、『絶賛』が付いた記事などに大きな違和感を感じることが無かったのに、この1〜2年で『絶賛』と銘打ったタイトルや記事がすごく増えたように感じられるようになった。

 

あくまでも個人的な印象に過ぎないのだが。

 

まるで通販番組の、『なんと、今申し込めば初回限定〇〇円!』と同じように感じられて仕方ないのだ。

 

『絶賛』という言葉は、書かれたものを読む場合には違和感は少ないのに、会話などのしゃべり言葉で使われると嘘くささがプンプンと漂う。

 

だからだろうが、書き言葉として用いたことはほとんどないような気がする。

 

世間の方はどうなのだろうか?

 

 

本当に絶賛されてるものを絶賛と表現するのならなんの問題もないが、本当に絶賛されるような出来事なんてあっても年に1〜2回が相応しい頻度だと思えるのに、最近は1日に10も20も『絶賛』と銘打たれたタイトルや見出しを見るような気がする。

 

実際に絶賛に値するような内容を備えていれば良いのだが、最近は『で、結局何が言いたかったの?』と言うものが多いのだ。

 

まあ、カモにされたんだろうなとすぐわかるのだが。

 

これって、現代版狼少年と言えそうな気もする。

 

 

最近のわたしは『絶賛』不感症になっているので、本当に絶賛に値する話に絶賛というタイトルや見出しが付いていると第一報は見逃すはずだ。

 

ただ最近は本当に絶賛に値するならSNSでなんらかの動きが出るので、それを見てから反応すれば良いやと思っている。

 

SNS上での反応には互助会的な組織票も多いが、本当に絶賛されていれば、自分の言葉で一言添えた引用リツイートが多いはず。

 

念のために『絶賛』ってSEO的にはどの位置づけだろうかと見てみると、

 

『絶賛』 SEO

 

 

特に大した動きは感じられなかった。

 

 

小さいことが気になってしまうのは、ぼくの悪い癖!

やっぱり怖い個人情報が知られるということ!

偽の投資話には騙されないようにと注意を促す話を説明するためのわかりやすい図がある。

 

 

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この図の要点は、

 

  • 最初は人を集め囲い込むために、誘導目的で情報が発信される

 

  • 囲い込めた人はクローズドな場に引き込まれる

 

という2点に集約される。

 

これ自体は、悪いことではないし、世間の至るところで見られ、人を集めることを目的とする場合の定番のやり方でもある。

 

問題になるのは、囲い込まれた人が、何をさせられるのかであり、何をするのかだ。

 

トレードで大儲けしたという話は煽情的だから一攫千金的になるが、その文言が堅実で安定した生活ができるだとしたら地道な感じがするが、これはこれで人を惹きつける魅力を持つはずで、今も昔も大企業に就職したいと望む気持ちの背後にあるはずだ。

 

 

ところで、時代がアナログだった頃は、人を集めて囲い込むと言えば実際に人を集めて囲い込むことだったので、その前段階で名簿やリストを充実させても、それだけでは不十分で錯覚みたいなものだと思われていた。

 

しかし、デジタルが普及し社会インフラにも浸透すると、デジタルには結構な確率でバグ(誤り、不備、欠陥)があり、その場合一種の盲点が生じ、ただの名簿やリストに過ぎないものが実際に人を集めたのと同じ効果を発揮することがある。

 

 

他にも商品送りつけ詐欺なども増えている。

 

 

 

 

他にも、勝手に口座にお金を振り込んできて、勝手に超高利での貸付が成立したかのように取立てを行う闇金もいるが、これも銀行口座情報と住所氏名等の個人情報がセットで把握されていたら相手の意思だけでやろうと思えばできるのだ。

 

 

このように考えていくと、個人情報は伝える相手を選ぶ必要があることがよく分かる。

 

詳細な個人情報と紐付く登録や申し込みは警戒し過ぎるくらいがちょうど良いかもしれない。

ずる賢さのススメ!

幼稚園や小学校までは、正しいことを正しく教えようとするだろう。

 

そこで教えられる正しいこととは、法律的にも道徳的にも正しいこと。

 

しかし、成長とともに正しいことには裏があることが自然と分かってくる。

 

 

小説や映画の世界では、警察が悪の味方をする話は多い。

 

『警察』を、『政治』や『法律』に置き換えても成り立つ話も多い。

 

 

小説や映画のように正論が通用しない(≒正義が勝つとは限らない)ことが現実社会では多いし、実際に起きても不思議だとは感じられない。

 

なぜなのか?

 

 

一般的には大人の事情という言い方で収められる。

 

正直者がバカを見る、というような大人の事情もある。

 

子供には本当の理由を言えない場合や、言ったとしても子供には理解できない場合に使われることが多い。

 

正論がまかり通らないという意味では大人の事情は、悪いことのようだが必ずしもそうとは言えない。

 

Wikipediaには、大人の事情は大人の都合だとも書いてある。

 

大人の事情や大人の都合に振り回されるのは子供だけではない、むしろ大人の方が多いくらいだ。

 

大人の事情や都合に振り回される大人の存在に想いを馳せると、振り回す側が強者で、振り回される側が弱者だと気付く。

 

権力や財力を持ってるのが強者だと思いがちだが、バカにできないのがずる賢さの差(格差)。

 

この差が、正直者がバカを見るにつながるのだ。

 

 

ずる賢い人間は、目先の利益を追い続けてるだけなのだが、これがなぜか効果があるのは、世の中の変化のサイクルが速いことが理由かもしれない。

 

世の中の変化を波に例えるならば、私たち一人ひとりは良い波を待っているサーファーになる。

 

良い波が来たぞと思えても、その波を狙うのは周りにいる誰にとっても良い波であり、その波には一人しか乗れない。

 

さてどうするか?

 

周りの人たちを押し除けてでも一人波に乗ろうとするのか?

 

周りの人に波に気付かせないようにするのか?

 

他の人が乗り損なったのを見てから乗ろうとするのか?

 

 

最近の世の中を見てると、ずる賢いという処世術はもっと注目されても良いのかもしれないと思えてくる。

自己嫌悪

同調圧力が機能するためには前提として空気が読めることがある。

 

同調圧力が機能した結果全員が同じ行動を取ったからと言って、全員が納得してるとは限らないし、時には全員が納得してないと思えることすらあるように思えることも珍しくない。

 

一般的には同調圧力は良くないことと捉えられるし、空気を読むことは自分に自信が持てないからと考えられがちだが、そのような価値判断はともかくとして、一定のレベルで存在してることは誰でも感じてるはずだ。

 

空気を読むことの読むに似てるのが察すること。

 

ことばに出さずに相手の気持ちに気付くことで、相手は人間の場合に用いるので対人関係というコミュニケーションで、これまた日本のガラパゴス文化。

 

日本には〇〇道というしきたりやマナーを重んじる文化が多いことが由来なのかなと思える。

 

もしそうならば、同じ文化圏に属してない者同士だと空気を読んだり察したりは成り立ちにくいはず。

 

昔だったらともかく現代では、前提となる文化や常識は人さまざまなので、空気を読んだり察したりに関しても読み違えや察し違えは日常茶飯事となる。

 

例えば音や声を巡って。

 

聞こえることが即不快になる場合も増えていて、キーボードを叩く音などは静かにすることがマナーとは言えない場ですら気になることが多いのは、音に関して空気を読めない人が増えてるからかもしれないが、空気を読めない理由の一つに自分の世界に没入し集中してるという場合がある。

 

集中してる場合というのは、周りから見ると周りへのが配慮が無いとしか見えない。

 

逆に考えると、空気を読んでる最中というのは、集中できてないか、あるいは集中すべきことがなく、気が散った状態だと言えるのかもしれない。

 

空気を読んだり、察したりを、ごく自然にできる人は、周りの人に『空気を読んでよ』『察してよ』と望みながら我慢することも多い。

 

結果的に、我慢の限界を越え爆発する怒りとともに不満や不快を口にするので、空気を読まない人にとってはいきなり喧嘩を売られたようになる。

 

言った人も自分の口調の強さに自分で驚くので少なからず自己嫌悪が生じる。

 

 

昨日、ちょっと自己嫌悪に陥ることがあった。

 

怒りに任せて暴言を吐いたのだ。

 

具体的なことには触れないが、しばらくして自己嫌悪に陥り、一日中気分が悪かった。

 

 

翌日の今日になって、免罪符を得るかのように自己分析をしながら一般論の体を装いながら書いている。

 

 

 

19年前の9月11日

2001年9月11日アメリカで同時多発テロが起きた。

 

日本では、インターネット回線がアナログからADSLでのデジタルへの移行が始まったのが2000年なので、2001年当時はインターネットは速報性という点では劣っていたし、デバイス自体のモバイル化もお粗末だったので、気が利いたテレビ番組が一番速報性は高かった。

 

そんな頃のちょっとした思い出話。

 

検索すると、2001年9月11日は火曜日だったらしい。

 

この週、わたしは一週間の出張に出ていてホテル暮らしだった。

 

その日の仕事を終え、ホテルに戻りシャワーを浴びてテレビを見始めたのが多分20時過ぎ頃。

 

ホテルのテレビはチャンネル数も多く、当時一般家庭ではケーブルテレビは普及途上だったので、普段見れないチャンネルを変えて楽しんでいた。

 

そんな中でCNNを見ていて、これはなんだろうかという映像が流れていた。

 

一本の高層ビルから煙が上がっている映像だった。

 

映像は、ビルからはかなり離れているように感じられた。

 

ただ映像だけを流していて、音声は一切流れない。

 

時折入る音声は、カメラを置いてる現場の周辺の音で、聞いていても情報としては役に立たない。

 

これはなんの映像なのだろうか?

 

ビルからは立ち上る煙を見ていて、映画タワーリングインフェルノを連想していたわたしは、もしかしたら実写で映画の撮影でもしてるのだろうかと思った。

 

しかし、それにしてはナレーションを含めて一切の説明の音声が入らないのが不思議だった。

 

何の説明もなくビルからは上がる煙の映像を見ているだけでは飽きてしまい、別のチャンネルに変えた。

 

しばらくして、さっきの映像はどうなったのだろうかCNNに変えると、煙が上がっていたビルの隣のビルからも煙が上がっていた。

 

これはいったい何なんだ?

 

もしかして、事件や事故かもしれないと思い、そうだとすると遅かれ早かれ日本語での報道も始まるだろうと、日本のニュースチャンネルなど色々なものを見たが、どこも伝える気配がない。

 

NHKのニュースの時間になっても何も伝えないので、事件や事故ではないのかなとも思うが、何もないのにこんなに延々CNNが音声なしの映像だけを流すわけないだろうとも感じ、何とも言いようのない事実は小説よりも奇なりを感じていた。

 

今にして思うと、現場にいるすべての人が何が起きているのか説明不可能だったのだ。

 

そして10時直前になりテレビ朝日系のニュースステーションが始まったが、その冒頭が煙を上げるビルの映像だった。

 

やっぱり事件だったんだ、と分かった瞬間だった。

 

まさか飛行機がビルに突っ込んでいたなどとは全く予想できなかった。

 

 

Wikipediaによると、現地で最初の衝突が起きていたのは午前10時頃で、現地と日本の時差は13時間なので、最初の衝突は日本時間の夜の9時頃だったようなので、少し記憶と違っていることも分かった。

 

同じことが現在起きたとすれば瞬時に伝わるんだろうなと思うと、わたしにとっての2001年9月11日のアメリカ同時多発テロは、通信環境がのどかだった時代の象徴であり、テレビが情報の王様だった頃の事件として心に残っている。

 

 

スズムシの鳴き声は受話器越しには聞こえない!

今朝ラジオを聞いていた。

 

その中のコーナーでリスナーから電話で寄せられた秋の様子を伝える録音メッセージを紹介していた。

 

ある方の録音に『この声が聞こえますか?』と言ってスズムシというかなにかの秋の虫のような音色に似せて口笛を録音しているものがあった。

 

失礼ながら、あまり上手ではなかったのですぐに口笛だなと分かったのだが、パーソナリティの反応は、『これは口笛ですよね(聞いてるわたしはそんなことすぐに分かるだろうとと思いながら)、本物のスズムシだったら周波数の関係で受話器越しには聞こえないんですよね』だった。

 

これを聞いて、今更ながら『そうだ、そうだった』と思い出した。

 

 

わたしがそのことを最初に知ったのはドラマ相棒でだった。

 

検索すると、

 

2009年10月21日(水) 第2話「さよなら、バードランド」

 

 

だと分かった。

 

 

完璧なアリバイは工作によるものだったが、受話器越しに話した時に背後でスズムシの鳴き声が聞こえていたと言ったことで、スズムシが鳴いていたことは現場にいなければ分からないことだと指摘されアリバイが破綻するという展開だった。

 

この、スズムシの鳴き声が受話器越しには聞こえないという話は、ミステリー界では定番のトリック崩しのネタらしく古今東西で使われているらしいので、日本のドラマでも注意してると気付くだろう。

 

 

 

日中はまだまだ暑いが、台風10号は確実に秋を呼び寄せたように感じられる。

 

スズムシの鳴き声は受話器越しには聞こえないという話が、季節が秋に移ろい出したことを教えてくれる。

 

 

人工知能的なマーケティングは互助会が支える!

全然違う別々の話が結び付いた話。

 

 

羽生善治『人工知能の核心』を読んだ。

 

この本は羽生さんがNHKと共同でさまざまなAIに関連する取材を行い、将棋での対局を通じての話が書かれている。

 

つまり、羽生さんはAIに関して詳しいのだ。

 

 

 

そんな羽生さんはこの本の中で、人工知能に創造的な行為を託すということに関して次のような意見を述べていた。

 

 

ちなみに、私は最近のハリウッド映画などに顕著な、徹底的なマーケティングを重ねて制作された映画を観ると、『まるで人工知能みたいだな』という印象を受けることがあります。全てのプロセスが『計算』されてるように思えて、個人的にそういう作品は無機質に感じられ、あまり面白いとは思わなかったりします。

 

 

羽生善治さんが人工知能的だと感じてる例としてあげているのが、

 

 

『二時間以内に収めないと多くの観客が来ない』とか『何分かに一回は展開が変わらないと飽きてしまう』とか、そんなことばかりを突き詰めた先には、歴史に残る作品が生まれる気もしません。

 

 

 

この羽生善治さんの話とわたしの中で結び付いたのが次の話。

 

 

お笑い芸人がおもしろくないのは当たり前

わたしには全然おもしろくない芸人のお笑いを一番笑うのは同時に出演している同業者の芸人たちである。かれらはおなじ笑いのプロのはずなのに、どうしてそんな程度のネタで笑えるのだろうと不思議だったが、お笑い芸人の世界は互助会だったのである。

 

 

これらの二つの話からキーワードになりそうな部分を抜き出すと、

 

  • 人工知能的なものはマーケティング的である

 

  • 日本のお笑い界は互助会である

 

 

この二つがわたしの中で結び付いて出来上がった仮説が、

 

 

  • 人工知能的なマーケティングは互助会が支える

 

 

となった。

 

 

現在では、人間の営みのほとんどがマーケティング的であると言われるようになっている。

 

そこには市場原理があるとされる。

 

人間の営みの背後にある理屈や感情こそが市場原理の根底にあるとされ、市場をコントロールできるはずの政治でさえ、市場原理で動くようになっている。

 

マーケティングとはその時々の市場原理の代弁者なのだ。

 

つまり、日本では市場原理やマーケティングが機能する場では互助会が幅を利かせるのだ。

 

互助会というのは説明するのが難しいが、利害が関係する者同士の間で暗黙のうちに成立する空気のもとに集う集団、とでもなるのだろうか。

 

尊敬や信頼や好意で結びつくのではなく、で結び付き、で離れる関係性だ。

 

日本で起きている動きや流れの多くは互助会で説明がつくような気がする。

 

互助会の理屈は一見多数決に見えるが、実際にはヒエラルキーに従う構造。

 

ここ最近の政治で言うなら、総理交代に伴う一連の動きや流れも派閥という互助会の規模の大きさで出来上がったヒエラルキーから抜け出せない様がよく見える。

 

 

日本の互助会的なヒエラルキーの元でありがちな会話に、『俺があいつを食わせてやってる』や『俺はあの人のおかげで食えている』がある。

 

親会社と子会社や系列企業の間に成り立つ関係としては古典的であるとともに極めて日本的であり、どこか宗教的でもある。

 

これらのことばは、ボーッと聞いてると義理人情の結び付きに聞こえ、恩と感謝を忘れない美徳として語られがちだが、よく考えると陰質な束縛だと気付く。

 

 

儲けたかったらファンや信者を作れという話は多く、フォロワーの多い人をインフルエンサーと呼んで持ち上げたりするが、これもすべて互助会の別名だと思えば気持ちが覚めるだろう。

 

 

クールなはずの人工知能を想像していたが、人工知能は人間の行動を学習するようにプログラミングされていることを考えると、油断してるととんでもないものを生み出す可能性があることを忘れてはいけない。