違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

日本ではフォルダー保存派の女性が増えている!?

世界のコロナ対策と日本のコロナ対策の違いを見ていて、ずっとモヤモヤしていたことを整理していて気付いた話で、あくまでも自分の備忘録としての独り言。

 

最初にキーワードになったのは、海外でのロックダウンと日本の自粛の違い。

 

人の外出等の動きを法律で規制し、違反すれば犯罪者となるのがロックダウン。

 

人の外出等の動きを自主規制や要請で制限することは、あくまでも一人ひとりの自らの自由意思での選択に委ねることが自粛。

 

 

つまり、逮捕されるのが嫌だから、犯罪者になるのは嫌だから応じるのがロックダウンなのに対して、自粛は世間の目を意識した無言の同調圧力に応じること。

 

 

この違いは当初から指摘されていたが、この違いは補償の有無という観点で語られることが多く、わたしも無意識のうちにそっちに流されていた。

 

ロックダウンの場合は、応じた場合には補償があるが、自粛の場合は給付金等はあっても手続きや額を巡っての不満がとても大きいという違いで捉えられていた。

 

 

しかし、全然なんの関係もないのだが、最近は台風が過ぎ去った後でも暑いなと思っていると、昔は台風が過ぎ去った後には涼しくなって一気に秋が来てたなと思った時に、いつまでも暑いのがまるで罰でも受けているかのように感じて気付いたことがある。

 

犯罪を犯したり悪いことをして、その記憶や記録がいつまでも残ることを烙印が押されるという言い方をすることを思い出した。

 

烙印の由来は焼印だから、日本に限った話ではないのだが、すごく日本的なイメージがある、それは同時にキリスト教の懺悔を思い出したからだ。

 

キリスト教では、キリストに懺悔をして犯した罪を悔いると免罪される、もちろん法律的に犯した罪が消えるわけではなく、あくまでも心の問題としての話だが。

 

自粛に応じる日本人のメンタリティは、同調圧力と表現されるが、その背後には『烙印を押されたくない』という思いがあるように思えてくる。

 

一方で、押された烙印が懺悔で消えるとすれば、自粛は機能しなくて当然だ。

 

情報や記録がリセットされるかされないかが大きな違いを生むんだなと改めて感じられた。

 

いつまでも消えないデジタルデータが負の作用を及ぼす場合に、そのようなデータのことをデジタルタトゥーと呼ぶが、これも烙印の一種だ。

 

さらに、そう言えば男性と女性で記憶の仕方に違いがあることを、男のフォルダー保存に対して、女の上書き保存、と例えることも思い出された。

 

フォルダー保存とは烙印を押す(押される)ことに似ていて、上書き保存は懺悔に似ている。

 

この男女の記憶の違いは、いつまでも過去の記憶に囚われて女々しい男に対して、過去はきれいさっぱり忘れる女を思わせるが、女々しいとされる行為が極めて男らしい行為であるところもいかにも日本的な気がする。

 

 

このように考えると、日本で自粛に男性が応じることには不思議はないが、女性が応じてるということは、日本では女性の男性化(あくまでも表面的な行動として)が起きてるからとしか思えなくなる。

 

おそらく女性の社会進出の結果かなと思えてくる。

 

女性の社会進出が悪いなどと言いたいわけではなく、女性がいざ社会に進出すると、日本では男社会の仕組みに迎合せざるを得なかったのだろうということが今さらながら想像できるし、そんな行動が無意識や諦めに近かったとすれば、それこそが忖度だとも思えてくる。

 

さまざまなことがガラパゴスと揶揄される日本だが、鍵を握っているのは女性なのだろうと思えてくる。

 

そう考えると、日本の女性はフォルダー保存派が増えてると思えてくる。

 

 

女性がいつまでも覚えてること言えば恨み辛みが似合うところが怖い!

性格の悪い美男美女には要注意!

興味深い記事を紹介するツイートがあった。

 

 

 

コンプレックスは、あらゆる分野で前向きなモチベーションの源泉となり得るので、人によっては武器になるが、前向きにならずに後ろ向きに作用することもある。

 

出来ないことがコンプレックスの場合は、出来るようになりたいというモチベーションが刺激されることは一般的には前向きなものと考えられるが、自分の外見がコンプレックスの場合は微妙になる。

 

だからこそ上記のような記事につながるのだ。

 

外見というのは、ファッションであっても顔や身体であっても第一印象に大きく影響するので、何かしらの評価につながる。

 

 

そのような評価の中でも悪い意味での差別に通じる価値観がルッキズムと呼ばれる。

 

外見で差別されるという経験や過度の被害妄想がある人は、外見さえ良ければと思うかもしれないが、実は外見が良くても救いにならないことは多いのだ。

 

そのようなことを指摘するツイートがあった。

 

 

 

Wikipediaのルッキズムを読むと、外見による差別は、教育の場や裁判の場ですら見過ごせないレベルで発生してると受け取れる。

 

外見が第一印象に大きな影響を与えるだけではルッキズムは大きな問題にはならないはずだ、なぜなら第一印象なんて簡単に覆るものなのだから。

 

しかし、ルッキズムが問題になることが増えてるということは、第一印象を覆す機会やチャンスを得られないままの人が多いからなのかもしれない。

 

ビジネスにおけるプレゼンでも、最初の3分で成否が決まると言われる。

 

だとすると、プレゼンの中身そのものよりも、プレゼンターの外見や表情が与える第一印象でプレゼンが決まってることになる。

 

そんなバカなと言いたいところだが、然もありなんとも思える。

 

 

以前聞いた話でこんな話があった。

 

結婚を含めて大事なパートナーを選ぶ際には、必要となる条件を満たした上で、相手が健康であることが重要で、健康であることを証するためには今だったら健康診断で判断できるが、健康であることは顔や身体が整っているかどうかで判断することがあったという話。

 

合理的な基準を持ち合わせない時代には、健康で免疫力が高い人は美形であると思われていたらしいという話。

 

こういう感覚は、DNAのレベルで染み付いていても不思議はない。

 

美形にこだわるのはDNAのせいかもしれないのだ。

 

 

男女問わず、自分のパートナーに美形を望む人は意外に多いが、現代では相手に望むだけでなく自分自身も美形になりたいと望む人が増えているのだろう。

 

 

どのような姿形が美形とされるかはその時代によって変わるのだろうが、現代の生まれながらに美形とされる人は外見に関してコンプレックスを持ってないが故に、男性であろうと女性であろうと性格の良さも持ち合わせているような気がする。

 

コンプレックスが動機やモチベーションになる人は、心の底に黒いものを秘めていても不思議はない。

 

ルッキズムを克服しようと自分の顔や身体に手を加える人は増えてるかもしれないが、そのような人達は最後に性格でふるいにかけられる。

 

 

性格の悪い美男美女には要注意かもしれない。

需要を上回る供給

資格で食える職業の最上位に位置する弁護士や医師ですら食えない者が出ているという話はよく聞く。

 

特に弁護士は、2002 年 3 月 19 日に閣議決定された司法制度改革推進計画で司法試験の合格者を増やす方向にシフトして、急激に弁護士の増加が顕在化したという背景もある。

 

次のツイートは東大の医学部出身の方のもの。

 

 

 

 

 

あらゆるビジネスに共通する要素として、儲けたいならば、需要に対して供給が不足してることに携わるということ、というのがある。

 

そのような分野に関しては、ノウハウの共有が進んでいないことが参入障壁になるので需要を独占できるから儲けられる。

 

弁護士の場合は、司法試験が超難関であることが大きな参入障壁となっていたので独占できていたが、そこが緩和されると大きなパイだと思われていた市場は、思っていたよりも小さいことが発覚し、少ないパイの奪い合いになるのだ。

 

そして、ただでさえ少ないパイの中でも美味しいパイは新規参入者にはそもそも手が届きにくいので、奪い合いが起きるのは不味いパイを巡ってなのだ。

 

 

街中や住宅地に熊やイノシシが現れることが増えた背景にもたぶん同じ理屈が働いているはず。

 

開発して人間の領域を増やしたことで、領域を奪われた野生動物とパイの奪い合いが顕在化してるのだ。

 

パイの奪い合いが起こる現場では、出会う必要がない者同士の出会いがあり、その出会いは奪い合いになるのだ。

 

 

現在の社会では、あらゆる分野で買いたい人に対して売りたい人が多過ぎる。

 

奪い合いという観点で捉えると、お金を持っている人からお金を奪う行為がビジネスと呼ばれている。

 

“欲しい”という需要を満たすのが本来の供給が果たす役割だが、現代の供給側にどこまで“欲しい”という需要に応える気持ちがあるのかは疑問が大きい。

 

そもそも、需要の大元にあるはずの“欲しい”が希薄になってるようにも感じられる。

 

だとすると、供給する側は需要に応えたいと思いながらも、需要とは直接結び付かないものを供給するようになるだろう。

 

結果的に、売買が成立してる現場でもミスマッチは頻繁におきてるだろうと想像できる。

 

恋愛や雇用のような一致が得られることが重要な場でも、仲介システムを介した表面的なマッチングというミスマッチが頻繁に起きてるはずだ。

 

さまざまなミスマッチが起きてるであろう現場を想像すると、人であろうとものであろうと、完成された既製品を求めてるということに原因があるのかもと思えてくる。

 

現場に応じた微調整程度のことが、とても高いハードルとなっていて許容できなくなっていて、微調整されたものが新たな商品やサービスとしてリリースされているので、人もモノも似たようなものだらけになってしまっている。

 

そんな流れに反発するかのような動きが、広い意味でのDIYに感じられるが、一部で流行ってるという扱いにとどまっている。

 

DIYには、自分なりの工夫が必須。

 

つまり、人の数だけ需要があり、供給されてるものは材料として手や手間を加えることで対処することになる。

 

 

 

需要はあるけど供給が少ないものはなんだろうかと考えたからこそ商品やサービス(この中には人材も含まれる)は充実したが、その結果世の中は帯に短し襷に長しなもので溢れるようになった。

 

 

そして、たくさんあるのに欲しいものだけがない、となった。

 

弁護士や医師の話に戻ると、高い専門性を身につけた人に全く一般人としての汎用性がなく、時には常識すら通じないことが珍しくなくなっている。

 

 

供給過多が増えてる現代に、新規ビジネスを考える際に需要と供給の関係性に捉われ過ぎるとますます需要から離れていくような気がしてくる。

半沢直樹がやっぱりおもしろい理由?

前作で大ブレークしたドラマ半沢直樹は業界内の様々な事情やしがらみの関係で、続編が期待されてるにも関わらず続編が動き出すまでにずいぶんと時間がかかった。

 

期待が大きい分だけ、作り手にはプレッシャーだっただろうが、それは観る側ににとっても同じことだ。

 

観る人の多くは単なる暇つぶし以上の極上のエンターテインメントを期待していたはずだ。

 

わたしは前作の半沢直樹で初めて堺雅人という俳優を知った。

 

わたしにとっての半沢直樹のおもしろさは堺雅人のおもしろさであった。

 

そして、堺雅人さんの出演作を検索し、多くのものを観たが、その結果半沢直樹よりもおもしろいと思ったのはリーガルハイだった。

 

全くジャンルを異にするこの二つの作品の共通点は、一言で言うならリアリティへの感情移入だと感じられた。

 

半沢直樹のリアリティは、現実社会はこうなのかもしれないと言うリアリティ。

 

リーガルハイのリアリティは、こんなこと現実にはないけど、心理描写にはとても共感できるリアリティがあった。

 

共感できるリアリティを感じられたのは、直接的には堺雅人さんの演技力に負うところが大きい。

 

演技に関しては、脚本の巧みさが不可欠。

 

単なるストーリーや場面設定というだけでなく、出演俳優の特徴を引き出すセリフや言い回しを与えなければいけない。

 

 

堺雅人さんの背筋がピンと伸びた姿勢に合い、滑舌の良い長ゼリフもこなせる鮮やかな喋りを活かせるセリフがドラマを盛り上げるのだ。

 

 

そしてさらに重要なことは脇役をそれなりの重鎮で固めることで、半沢直樹に関しては歌舞伎役者がその役を担っている。

 

トレンディドラマだと知名度が高いだけの人を脇役に据えることが多いが、ここに演技派の人を据えるとグッとドラマが締まるのだ。

 

歌舞伎役者の大袈裟なセリフ回しと顔芸は、着物を着た舞台ではなく現代という設定を与えると、その世界観に感情移入でき没入できるのだ。

 

全然ジャンルは違う話だが、現代は演歌歌手が演歌を歌っても賞賛は受けないが、演歌歌手がジャズなどのカバーを歌うと歌のうまさや醸し出す雰囲気が絶賛されるのに似てる気がしている。

 

 

脚本家は前回とは変わっているので不安視する声は一部にあった。

 

 

初代の半沢直樹と違って、二代目の半沢直樹は少しリーガルハイの側に寄ったような気がする。

 

状況設定的にはリアリティが高いとはいえないのに、感情が共感できるリアリティはちゃんとあることで、エンターテインメントしてのレベルが上がっていると感じられる。

 

前作に比べると視聴率が悪いがそれでもコンスタントに20%以上をマークしていると言うことは期待を裏切ってないと言う証だろう。

 

視聴率が前作より下がっているのは、選挙でいうところの浮動票が取り込めてないだけで、今という時代にはそれを望むのは酷な話だ。

 

 

いわゆるビッグデータで半沢直樹を俯瞰すると、視聴者層にはかなりの偏りがあるのかもしれない。

 

女性や若い人は、半沢直樹をおもしろいと思ってるのだろうか?

事故物件に思うこと!

映画館で映画を見なくなってずいぶん経つが、久々に映画館で見たらインパクトがあるかもと思える映画が出てきた。

 

タイトルは『事故物件怖い間取り』で、公式サイトは以下。

 

https://movies.shochiku.co.jp/jikobukken-movie/

 

 

 

事故物件といえば、大島てるが有名で、そんな物件が地図上に表示されてるのが以下のサイト。

 

http://www.oshimaland.co.jp/?p=ngl8l20ghttp://www.oshimaland.co.jp/?p=1q18ydja&nbsp

 

 

事件や事故の現場になった不動産が事故物件とされ、不吉な物件で縁起が悪いとされるので不動産としての評価も下がることが多い。

 

気持ち悪さの原因の多くは、被害者の霊魂が成仏できずにその辺にいるかもしれないと感じることにもあるだろう。

 

人生で一度だけだが、知人が殺人事件の被害者になったことがある。

 

それも比較的最近の話。

 

第一報は共通の知人からで、知人は第一発見者から聞いていた。

 

連絡が取れないことを不審に思い、かつ予感というか心当たりがあった第一発見者は警察に連絡し、警察と一緒に被害者宅を訪れ死体を発見。

 

経緯については生々しいから触れないが、事件が報道される前にわたしには情報が回ってきていた。

 

事件そのものを語りたいわけではなく、事故物件が心理的にどのような影響を与えるのか、またどのような影響を受けるのかということを話してみたい。

 

その被害者の方とわたしは、ウマが合わないタイプだったので親しく付き合うということはなかったのだが、お互いに快く思ってなかったことは自覚していたので、少しだけ背中がゾクゾクするような感じが付き纏うようになっていた。

 

接点があったのは、ずいぶん昔に2年間ほどだったので、最近の状況はなんとなく噂には聞くという程度だった。

 

現場になった被害者の住所は、昔知っていた住所から大きく離れ、なんとわたしの自宅からの徒歩圏内であり、わたしがよく行く山登りルート(往復で15kmほど)の途中の目と鼻の先だった。

 

わたしにとっての山登りは運動不足を解消するためのもので、サボるとツケがまわるだろうなと思っていたので、楽しむ以上に必要なものだと位置付けていた。

 

しかし事件があって以降、事件の発生が2月で寒かったこともあり、背中のゾクゾクが止まらなくなっていた。

 

現場の近くを通ると祟られるんじゃないだろうか?

 

祟られたら山で遭難したり事故に遭うんじゃないだろうかと思い始めていた。

 

そこで1年だけ喪に服そうと、山登りを中断することにした。

 

 

わたしは、被害者とウマが合わなかったので祟られるという心配をしたが、逆にウマが合っていたら道連れにされる心配をしたかもしれない。

 

現場の近所の方で、面識すらない方の中には、逆恨みやトバッチリで祟られたらどうしようという気持ちになった方がいたかもしれない。

 

さほどオカルト話を怖がるタイプではないはずだが、この時は少しビクついていた。

 

 

ずっと以前大学を卒業して間もない頃、オートバイに乗っていて高速道路で高速隊のパトカーに説教されたことがある、本当はスピード違反で捕まえるつもりだったらしいが、追尾が始まる前にわたしが気付いて減速したからだが停止を命じられた。

 

そのお説教の中に、ちょうどお盆の時期だったのだが、『この時期は里帰りした霊魂の中には連れて行く相手を探してる場合がある』というものがあった。

 

このことばは結構当時のわたしには刺さったのだ。

 

そういうことってあるかもしれないと感じたのだ。

 

 

こういう気持ちになると、スピードを出しても全く楽しくなくなったのだ。(あまり続かなかったが)

 

 

現代人は理詰めに反応し対処したいと考える人が多いかもしれないが、肝心要の時には情緒的な反応をしてしまうことが避けられないと知っておいた方が良いかもしれない。

 

自分に関係ないやと思ってる時に感じる事故物件に対するイメージと、自分に関係するかもしれないと感じる事故物件では、印象はガラリと変わるので、自分で自分に戸惑うかもしれない。

 

 

まもなく超危険だといわれてる台風10号がやって来るが、これまでも事故物件などと呼ばれながらも住んでる方を守った物件はたくさんあることを考えると、台風や地震を乗り越えた事故物件は、その汚名を外してあげても良いなと思えてくる。

 

 

同じと違うの違い!?

違っているのに、似てないのに、同じだと感じることがある。

 

例えば、ブログを書く方だったら自分のブログは書きながら読んでいるし、他人のブログも読んでいるはずだ。

 

自分のブログを書きながら読んでいて、取り扱うテーマは違っているのに他のテーマを扱っている時と同じ匂いが漂っていることに気づく人は多いのではないだろうか?

 

私はよくあるし、別の方が似たようなことを言っているのを聞いたこともある。

 

そういう時に、『俺ってダメだなあ』と感じることがある。

 

しかし、そんなことを感じる必要はないのでは、という話をしてみたい。

 

 

 

 

人間を特定する際に指紋が用いられるのは一人一人模様が違うからと言われているが、ボーッと指紋を見ていても違いを感じることはない、いや一生懸命見ても人物特定に繋がるとは感じられない。

 

人物特定に歩行姿が用いられることもある。

 

ドラマ『科捜研の女』では歩き姿を鑑定する歩容認証がよく出てくる。

 

余談だが、このブログを書くまで『ほよう』は“歩様“だと思っていたが検索して正しくは歩容だと分かった。

 

歩き姿は指紋と違って、特に技術を使わなくても違いや特徴が現れていることには気付いてる人は多いはずだ。

 

しかし、歩くという行為を文章で説明すると歩き姿の多様性はとても表現できない。

 

このように考えると、文章には表現力の限界があるように感じられるのに、文章には著者の言い回しの癖や言葉の選び方の癖が現れるので、この文章は〇〇さんが書いたんじゃないだろうかと連想が働きやすい。

 

 

文章にはとても個性が出るのとするならば、言葉の選択や言い回しを含めた文体にも、指紋や歩き姿に通じる個性が隠せないからだろうし、その個性とは限りなく癖と言えるような気もしてくる。

 

 

癖が個性になってることは多いはずだ。

 

同じことを繰り返すから癖になる、その繰り返しが意識的だろうが無意識的であろうが。

 

癖が個性になるということは、そこに違いがあるからだ。

 

 

同じが違いに繋がるとはなんとも哲学的だ。

 

 

 

エンタメの世界では、同じことをやってると飽きられると言われる。

 

エンタメの世界では、違うことを目指して躍起になるが、映画やドラマでは36のパターンに集約されると認識されている。

 

ジョルジュ・ポルティの『物語の36曲面』

 

1  哀願・嘆願

2  救助・救済

3  復讐・復讐に追われる罪

4  近親間の復讐

5  逃走(追跡)

6  苦難・災難

7  残酷な又は不幸な渦に巻き込まれる場合

8  反抗(謀反)

9  戦い(不適な争い、大胆な企図)

10 誘拐

11 不審な人物または問題(謎)

12 目的への努力(獲得)

13 近親間の憎悪

14 近親間の争い

15 姦通から生ずる残虐

16 精神錯乱

17 運命的な手ぬかり(浅慮)

18 知らずに犯す愛欲の罪

19 知らずに犯す近親者の殺傷

20 理想のための自己犠牲

21 近親者のための自己犠牲

22 情熱のための犠牲

23 愛する者を犠牲にする場合

24 三角関係

25 姦通

26 不倫な恋愛関係

27 愛する者の不名誉の発見

28 愛人との間に横たわる障害

29 敵を愛する場合

30 大望(野心)

31 神に背く争い

32 誤った嫉妬

33 誤った判断

34 悔恨

35 失われた者の探索と発見

36 愛する者の消失

 

 

36もパターンがあると脚本には無限のパターンがあると感じる人もいるだろうが、このパターンを認識するとどんな脚本も過去の何かに似てることになる。

 

 

 

一方、政治やビジネスの世界では、結果を出したければ同じことを愚直に繰り返せと今でも言われることが多い。

 

ビジネスの世界では、新商品や新サービスという同じではないということに注目が集まるが、商品やサービスを普及させるために採られる手法は同じことが繰り返される。

 

 

しかしながら現在のように多様化した時代になると、違いをアピールする新商品や新サービスに『またか』と感じることが増えている。

 

 

一方で、使われてるマニュアルはほとんど同じはずなのに、接客というジャンルになると、違いを感じることの方が多い。

 

チェーン展開されてる接客ビジネスでは、一見客の目には金太郎飴に見える接客スタイルも、常連客やヘビーユーザーの目には違いが認識されてるはずだ。

 

その違いは、店のスタッフをその他大勢の一人と捉えるか、そこにいるその人と捉えるかの違いだと思えてくる。

 

この感覚は、リアルな場であろうと、ネットや仮想の場であろうと、ほぼ同じように機能すると思える。

 

 

このように考えていると、違いをアピールしようと思うならば、同じことを継続することが近道であり早道なのではないだろうかと思えてくる。

 

 

世の中は得てして向かってる方向の反対側が本当の目的地だということがある。

パソナの本社移転に思うこと

何かと揶揄されることが多い人材派遣業の最大手のパソナが淡路島に本社を移転するという話が出てきた。

 

報道等で表に出てくる動機は東京一極集中の弊害回避で、コロナで余儀なくされたリモートワークの実用化がキッカケのようにも思える。

 

これに対して世間の声は、実態は大規模リストラなのではという声が上がっているところがいかにも人材派遣業らしい。

 

人材派遣業は儲かってるようなイメージがあるが、不景気になると真っ先に重荷になるのが人件費であり、その契約が簡単に解除できるとすれば、人材派遣の現状は厳しいことが想像に難くない。

 

 

背景に目を向けると、パソナの本社移転には現状及び近未来を見据えての将来展望に対する付け焼き刃が垣間見える。

 

本社移転と聞いて私が思い出すことは二つある。

 

一つは、大阪本社(関西本社)の大企業が軒並み本社を東京に移転し始めた歴史だ。

 

大阪から東京への本社移転の動きは1960年代から起きていたとされるが、当初は複数本社制を採り東京本社、大阪本社が存在し、創業時の本社を創業本社などと呼んでいた。

 

2000年の時点では、資本金100億円以上の大阪企業の45%が複数本社制を導入しており、うち大阪に主たる本社機能を置く企業が7割、東京に主たる本社機能を置く企業が3割だった、とされる。

 

<参考>

http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2593.html

 

 

 

 

21世紀に入ると複数本社制を採用する企業で海外取引が多い企業や株価や投資家を意識する企業は否応なく東京本社が実質本社になっていった。

 

このような動き以外に情報の発信地としての比重の高まりもあり、あらゆる意味で東京への一極集中を加速させた。

 

 

そんな流れに疑問を持たせたのが東日本大震災。

 

 

本社移転に関して思い出す二つ目は以下の流れで起きたことだった。

 

 

震災被災企業、12%が本社移転 東北大調べ   2012/10/1

地震や津波などで直接的な被害を受けた4545社のうち、震災後に本社を移転したか移転する予定と答えた企業は12%にあたる559社に達した。主要事業所を移転済み・移転予定と答えた企業の比率も、回答した被災企業の11%にあたる238社にのぼった。

 

 

さらに、

 

揺れの中心は東北だったにも関わらず、首都圏で東日本大震災を受けた人々は、『ああ、これが来るぞ来るぞと言われていた関東大震災か』と思ったという。

 

東日本大震災がきっかけで、リスクヘッジという視点が具体化したのだ。

 

本当の関東大震災が発生したらこんなものではないはずだという恐怖が具体的になったからだ。

 

 

その結果、

 

九州・沖縄への本社移転、東京・神奈川から30社 震災で大幅増   2012/3/1

帝国データバンク福岡支店は15日、九州・沖縄の企業の本社移転に関する調査結果を発表した。2011年に東京から九州・沖縄に本社を移した企業は前の年に比べ60%増の24社、神奈川からは50%増の6社に上った。東日本大震災を受け、首都圏から九州・沖縄に移転してくる企業動向が鮮明になった。

 

 

本社移転というのは、国に例えるなら遷都。

 

東日本大震災以降、遷都は首都機能移転とも呼ばれ、時々話題に上がるようになった。

 

遷都論には、リスヘッジもあるが、一極集中の格差や弊害(=地方の僻みや妬みや嘆き)の是正が付き纏う。

 

 

 

本社移転というキーワードでつらつらと書き連ねたが、不思議なことにその結果リストラとリスクヘッジが紙一重というかコインの裏と表のような関係に思えるようになってきた。